「あんたは無なの?」
なるほど、新興宗教の信者らしい言葉だ、と思った。地獄の階層でも語って聞かせてくれるのだろうか? 宗教論はもう沢山だ。
ちょっと考えれば分かる。生きてる以上、無にはなれない。欲はヒトとしての本能だ。それら全てを捨てなければ無ではない。
「無じゃないでしょ、欲張りだものね」
だんまりを決め込んだ僕に言葉を続ける。その通りだと思った。僕は無になりたい。つまり今は無ではない。心を消せたなら、きっと楽になれるのだろう。機械のようになれれば。こんな風に飢えなくていい。思い煩わなくていい。壊れて動けなくなるまで、彼女に尽くせたらと思う。
「あんたは無になりたいの?」
言葉が続く。そうだ、と思う。生きることも、消えることも出来ないなら。無になれれば。一個の機械のようにあれれば。
悲しくもないのに、視界が滲む。ドライアイで、悲しくて泣いてもまともに涙さえこぼれない目からぼろぼろと滴り落ちる水。
空っぽの頭で考えていた。
この水が心なら、全部出してしまえば無になれるのかな、と。

友人はいつの間にか居なくなった。入れ替わりに母の旧知の友人がやって来る。僕のおしめを替えたこともある、いわば二人目の母だ。

僕は失敗した。この体力では逃げきれないだろう。ここで死ぬのを試みた所で結果は見えている。飛び降りて死ねる高さではないし、首を掻き切るにも、あの包丁はプレゼントされたものだ。そんなので死ぬわけにはいかない。それだけは嫌だ。
半ば茫然とした僕を見て察したのだろう。しかし、口をついて出るのは、さっきまで聞かされていた言葉の表現を変えたものでしかない。
「そんなことは、分かってる」
掠れた声で返すのへ、
「本当に分かってないから言っている。分かるまで何度でも言うよ」
と、分かってないのはどっちだよと言いたくなる返事。
おまけに保険屋だから、うつで死ぬ人間は沢山見てきた云々と続く。調査で見聞きした話とやらを講釈される。
知ったことか、と言ってやりたかった。それらは僕じゃない。病気だと決めつけて、納得するのはあなたらで僕じゃない。
何とでも言えるのだろう、何せ「彼ら」は死んでるのだから。書類の死因欄にどう書かれるかなんて、死んだ後には関係ない。遺族の言葉がどれほどのものか、今この場にいるのに理解もしない。それもそうだ、全ては死んだ「彼ら」が持ち去ってしまった。「本当に分かっている」なら、「彼ら」は救えたんじゃないのか。
死因の欄に、ゼロが入ることはなかったんじゃないのか。

もう駄目だと思った。限界だと。僕はもう生きていけない。生きていてはいけない。
生きているだけで場所を食う。時間を食う。物も食うし、関係も食う。
では、僕が食べて後に残せるものはなんだろう。
虚無しかないのだと思った。何も残せない。奪い、損なわせ、傷つけるだけなのだと。
今消えなければ、より消えにくくなる。より長く生き延びてしまう。より多くを食べることになる。
僕は裸足のまま家を出た。後ろから叫び声が聞こえるがどうでもいい。お前なんかどうでもいいんだ。彼女に会いたい。会えるわけ、ない。

後ろから体を捕まれる。振りほどこうともがくが、振りほどけない。ろくに飲まず食わずだったことを後悔した。コンクリートの廊下に突っ伏して、僕は連れ戻される。
勝手に創っておいて、勝手に消えることは許されないなんて、あんまりじゃないか。

「あんたは無なの?」
一月半程前に言われた言葉。貯金なし、日銭なし、食うものもなく、一週間に一度、あれほど売るまいと決めていた本やCDをブックオフに持ち込んで、安弁当一つ買って帰る日々。
その間ずっと考えていたこと。無に、なりたい。

音信不通が続き、心配した友人と母がやって来て、頼むから放っておいてくれ、と頼む僕に対する執拗な語りかけ。
分かってる。でもどうにもならない。そんな自己啓発じみた思考で生きられるなら、今頃もっといい暮らしをしてる。理由を言え? 言っているじゃないか。そのお節介が僕の首を絞めているとも。
「頼むから、僕が本気で死にたくなる前に帰ってくれ」
呻くように、絞るように言った。帰らない。じゃあ、と、僕が出ていこうとする。
咄嗟に動く手。携帯電話を奪われる。
「あんたの彼女に電話する」
どこまで、僕を苦しめるつもりなんだろう。生まれは選べない。これが親な限り、どちらかが死ぬまでずっと、つきまとうのだろう。こうなるまでぶっ壊れた人間に、根性だのなんだのと説教する人間だ。死ぬのは逃げだ、と言う人間だ。逃げ? 逃げだって? その概念自体が、相手と向き合わないで思考停止した果てに、はた迷惑な持論を塗りつけているだけだって何故分からない。
生きて壊れて失うか、死んで消えて去るか。
全く酷い二択だ。馬鹿げた状況に過ぎる。生きられるものなら、そうしたい。その強さが欲しい。しかし現実はそうでなく、おまけに沈みかけた人間の頭を踏みつけるのは実の親。
僕は強く願った。
無になりたい。

結局、彼女は生理不順を冗談めかして言っただけらしい。でも僕はその言葉を聞いて固まってしまったのには変わりない。
フラッシュバック。顔も知らない実父。欠けた自らの由縁。もし子を授かるならば、そんな思いだけはけしてさすまい。
フラッシュバック。彼女はまだ働きたいと思っている。手段がないわけではないが、子供程歳が離れた弟がいれば、それが酷く困難なことはよく分かる。
重い。とてつもなく。おまけに重さの殆どは彼女にかかるのだ。僕はその重さに足りうる彼氏だろうか?支える力のある彼氏だろうか?
きっとそうではない。脆弱で頼りない彼氏だ。今は、まだ。

そんなだから、「生理が来ないの」なんて喜ぶべき話にも、いちいち過去がつきまとう。僕は経済的にも精神的にも、彼女にはそぐわないのではないか、などと考えこんでしまう。
これはもちろん本気で思っている訳ではないが、そういう認識を持たない方がおかしいとは考える。それがあくまで自己実現に向いている限りは。
生まれてしまったその日から、人生を投げ諦めて生きてきたのだ。今日から夢と希望を忘れずに真っ当に生きましょうなんて、出来よう筈もない。そんな生き方を真似してみても、埋まらない自己とポーズの解離にどこかしらが悲鳴を上げる。長生きしなけりゃいけないというのに、このざまだ。