どうして決めつけたがるのか。ある記事はこう、ある日記はこう、ある人はこうだし、だからここもそう。受け取るべき物事を「決めつけ」て「固定」してしまったほうが思考する上でとても楽になるのは分かる。よほど自分に密接な問題でもない限り、そうやってちゃっちゃと頭を切り替えてしまった方が、他のもっと重要でありそうな事に時間を割ける訳だ。そういう人にとっては、限りなく論旨が明快なほうがいいし、決め付けやすいほうがいいし、長々ぐだぐだと言葉を綴らずに、要旨と結論だけ箇条書きにしてやれば満足するのかもしれない。だから「〜のための……箇条」メソッドはあちらこちらで活用される。せっかちな人にはその要点だけ。気の長い人にはその要点を導くに至った経緯。上手い書き方だと思う。最初から万人に対して突きつけられる結論を持っているのならば。
時々はたと考えることがある。彼らは、画面に踊る文言しか見ようとしてないのか、それともそこまで考えを巡らせる心あるいは頭の余裕がないのか、と。長い混濁した文章には、それだけの煩悶があり、入り組んだ問題が込められているものではないのか。「理路整然としておらず、結論が見えない」のは「そう書かれているから」、あるいは「そう書かざるをえないから」とは考えないのだろうか。ある文章には、必ず対応するある結論がなくてはならないとでも信じきっているのだろうか。彼らは「〜について……って思うんだけどどうよ」という語り合いも持たぬのだろうか。


「ここ」がどこであるかを、今一度思い出して欲しい。「ここ」は誰でも参加できて、誰でも口をだせて、誰も信用ならず、誰もが誰とも違うところだ。何かをなすのに資格は要らないし、気負いこむ必要もない。そういう文化が「呟き」を筆頭にしたウェブサービスの台頭へと向かうのではなかったろうか。それとも、そちらにはけ口が出来たから、日記――ブログ、と言うのだったっけ――ではあらゆる理論武装をし、誰にも、何の口も出せぬような完成品をよこせ、ということだろうか。
こう書けば、どれだけ馬鹿げているかは分かりきったことだ。環境も価値観も物事の捉え方も違う者同士が、相互に知り合うにはどうするか。持っている全てをぶつけるしかないだろう。少ない言葉、少ないカードで分かり合えるのは幸運なことだ。多くの場合は百の言葉、千の議論を尽くしても理解へは至らない。
そもそもの観点が違うのだから仕方ないといえば仕方ないことではある。故に、同じ視点を持ちえた他の誰かを標的に書くということも往々にして行われるのだろう。違う観点で書かれたものを、違う観点のままで受け取るから、言葉の上での、文章体裁の上での言及になる。服の感想を聞いているのにポージングを批難されても仕方がない。確かにそこは問題かもしれないが、本当に問題にすべきことから考えれば些細なことだ。意思疎通が困難なほど日本語がお粗末だというならともかく、個々人の感性を基準にした語感、言葉選び、そういったものは実際のところ取るに足らない、問題にすらならないことではないか。配慮は必要だが、しかし重要であるかと問われれば、僕は違うと考える。同じ視点か、それを内包した視点を持てねば、あらゆる言葉は無意味でしかない。


……というあたりの観点、ものの見方、そいうものの差が、こういうことになる。猫も杓子もブログブログと言うのは仕方ない。そんな時代だ。ついて行けない方が悪いのだろう。ただ、そんな時代であるならば、相手が何を問題にしているかを読み取るくらいのリテラシーと、それに対しての妥当な対応を身に着けるべきではないか。自分にとって興味のないことをしている人を見つけ、わざわざその人のところまでやって行き、「興味ありません」と言うことの意味がどれほどか。興味がないならないでそのまま素通りするか、興味がないなりに考えてものを言うのが妥当ではないのか。気軽に「自分の意思表明」を出来るのは良いけれども、そこには常に自問も内包されて然るべきではないのか。


僕が何かしらの文章や言葉を受け取るとき、まず最初にすることは「人格を消す」ことだ。相手と自分を含めたヒトらしさを感じないようにして、一度受け取る。相手、自分、書かれていること、全てを並列にして、まずはそれぞれを関連付けずに考える。ここで冒頭の「決め付けたがり」と関係してくる。
先の記事の終わりの方にも書いた「他人は自分を映す鏡」というのも、このことに関してだ。人が何かを受け止める際には、必ず「自分ならどうする」という観点がどこかで介入してくる。気に食わなかったり、納得できなかったりの大半は、「俺ならこんな風にしない、こんなこと言わない」という観点でしかない。それが裏返って、「俺ならこういう意図で書く」ということになり、決め付けとして表層へ飛び出してくる。しかし重要なのは、言っているのは相手ということであり、自分の感性は自分の感性でしかなく、それは決してコモンセンスではない、ということだ。
だからこそ、出された品を味わう前に、まずは自分の考えを取っ払い、個々の物事を並列に考え、相手になりきってみたり、あるいは何ものでもないものになってみたりする必要がある。これも人によって限度はあるのかもしれないが、少なくとも自分と相手とを俯瞰してしまえば、感情面での行き違いはまず起こりえない。そこに至ってから初めて、「自分はどう思う」と考え始めたって遅くない。
ここで前回の記事の話に戻る。あれは勝手に代弁しているのでも擁護しているのでもなく、言葉選びや表題すらも感知せず、単純に内容、視点が面白いと思ったからだ。ある体系立ったものを、別の体系に当てはめて考えてみることの意味は、先人が大いに語りつくしてくれているので割愛するとしても、あの記事もそういった類のものであるにも関わらず、それ以外のところしか話になっていないのは勿体なさ過ぎる。


あらゆる利害関係や私情を排した観点で受け取り、考えてみる。その方が「自分」としては得るものが大きいのではないか。相手の記事を書いた意図などではなく、記事の意味でもなく、その人の観点だけを見つめてみる。自分にはないものを吸収する。変な枷のない思索の大地で自我を飛び回らせてみる。
ある意味では最も酷薄な言葉の受け取り方であるのかもしれない。