初音ミクブーム評における3つの間違い
http://blog.livedoor.jp/imoutoid/archives/51079216.html

うーん、なんというか、頭固い人、多いんだなあ。
恐らくどこかのニュースサイトにでもこのタイトルそのままで取り上げられて、特にコメント等も付記されなかったが為に、そちらのサイトのビジターがどういうものかも知らずにショッキングなタイトルを見て飛び込んで、この記事だけを読んだその結果コメント欄炎上とかそんな具合だと思われるのだけど。
そもそも、imoutoid氏のこの記事以前の文章を読んでいるいないに関わらず、これが表題通りの「決めつけ」だったり「言いがかり」のようなもの「ではない」と、ちらとこの記事を読んで分からないものだろうか。個人的にimoutoid氏には「思考回路が似ているのではないか」という妙な親近感があるのだけれども、それを抜きにしたってあそこまで言いがかりを付けられるものではない。問題の主眼を見誤るから、「批評に対する批評云々」といった、見当はずれのコメントになってしまうのだ。
後半に行けば行くほど表題の「ミク」からは遠ざかる「視点」を考えれば答えは自ずと見えてくる。imoutoid氏は、初音ミクブームを通して見えてきた「総体的なシーン」とでもいうべきものに対する態度を決めかねている、あるいは当惑しているのだ。このブームにまつわる様々な出来事を俯瞰してみた羅列。主語が「自分」なのも当然ではないか。理由が「そう思うから」なのも当然ではないか。これは客観的なもの、一般論的なものではない。それらを踏まえてimoutoid氏のレンズを通して見た「シーン」こそがこの記事であり、そしてそれに対して自分以外の誰かがどう思うか、つまるところ他者と自分とシーンとの相対的な位置関係を探ろうとしているだけなのだ。対象が不特定多数になってしまうのも当たり前で、特定の個人一人を取り上げて相互間の距離を測ったところで、その個人が属するある集合との距離は求まらない。そもそもその集合自体がえてして歪であり、てんで見当違いの方向に佇む人が予想外の集合に含まれていたりで、集合の輪郭線をなぞったところで分かるのは「端から端まで距離ありすぎんだけどどこを基点にすんのよ」ということであり、結果的に「だいたいこの辺が中心っしょ」と点を打ったところと自分との距離が、例えるなら社会と自分、例えるなら集団と自分、例えるなら組織と自分、というような関係性の形として表れるのだ。
そういう認識でもってimoutoid氏の文章を読み直せば、「ナンセンスか否か」について語る意義なんてものはこれ以上ないほどに明白になる。そもそもimoutoid氏自身が意識的にか無意識的にかは分からないが*1、自分の言葉の「ナンセンスさ」についての自覚を十二分に持っている。それでも尚、という話であり、それに対して「いやそれはナンセンスだからね」と言ってみるのは、「それこそナンセンスじゃないかね」という円環に陥る。抜け出すにはナンセンスさの指摘だけでは足りない。というのも、これは僕の持論であり妄想と言ってもいいものだが、論理レベルにもより高次なものと低次なものが存在するように思う。少し説明すると、この「ナンセンスさの円環」を論理レベル1だとして、その論理円環を突破した論理レベル2が存在し、その観点からすればその円環は問題にすらならない、のではないだろうか、というものだ。
こういう話をすると決まって頭の中のどこかで「それはただ観点を変えただけに過ぎない」と声が上がる訳なのだが、しかし論理が破綻したり矛盾したり円環構造に陥る際、それはその論理構造のどこかに欠陥が生じている訳で、ならばその論理は同じ状況で実行しても齟齬を来たさないものよりも低次ということになりはしないかと考えてみる。ある特定状況下でのみ発動しうる論理、それを人は「身勝手」だとか「主観」だとかと呼ぶわけで、ならば「論理」としての有用性を示すには、あらゆる事態、状況であっても必ず一定の結論へ、先に挙げた齟齬を来たすことなく着地できるものである他にあり得ない。
であるからして、ただの円環構造の指摘とそれの無意味さについての糾弾、これはやはりその円環構造に組み込まれるものでしかないと思うのだ。これが、何故その円環構造に至るのか、という原因と、その円環から抜け出す、あるいは円環構造それ自体が問題にならないような、解決としての指摘。この二点が論じられてさえいれば、僕もこんな眠い目を擦って長ったらしく思考整理なんぞしなくて済んだのである。

もはや思いっきり脱線してimoutoid氏と同じようなことになっている気がするが知らない。ともかく、この手の「お前も人のこと言えないだろ」に集約されるような水かけ論というものは、実のところ簡単にその円環から抜け出せる。己を省みればいいのだ。「お前」は「己」であり、「人のこと」は「俺のこと」なのだ。他人は自らを映す鏡とはよく言ったもので、自己内省を含んだ「お前も人のことは言えないだろ」は、少なくとも自分自身は円環構造に陥らない。上手く相手にも伝えられれば相手も円環から抜け出せる。逆も同様で、言われたならまず自分を省みれば良いだけなのだ。
この「水かけ」問題の多くは過去の過ちに端を発する。過ぎたものはもうどうしようもない。泣いて悔やんでも布団の中でいくら呻こうとも歩いていたり何気ない日常の最中でその失敗した時がフラッシュバックして苦しもうと決してそれは修正されることはない。そうなってしまった以上、いくら後学で高尚な思考や精神を手に入れたところで、全人類人っ子一人老若男女別け隔てなく「お前も人のこといえない」ことになる。「お前も人のこと言えない原理主義」に則るならこうだ。こんな凝り固まった柔軟性の欠片もない論理は早々に唾棄すべきである。人は学習する生き物であるし、円環構造それそのものも、「入っている」と理解していればそれは学習となり得る。数多の思考実験の結果としてあなたという人格はそこにあるのではないのか。そこに他者を加えて己にない視点を持とうとすることの何が問題なのであろうか。
最近しみじみ実感することがある。詭弁も、破綻矛盾円環した論理も、それそのもの自体は何ものでもない。それを糧とするか、あるいは餌とするか、はたまた礎としてしまうか。何もかもが受け手と送り手に依存している。もう少し広い視野とゆるい心を持ちたいものである。お前が言うなって?その通り。

*1:コメント欄の応答からは読み取れなかった