という一連の思考および諧謔すらも理解の外、あるいは失笑の種、あるいは不快なものと映るのだろうか。僕は恐らく決定的に何かが欠けているか、余分であるかしている。その何かを例えるなら、空気を読むだとか、行間を読むだとかといったコミュニケーション能力に起因するものかも知れないし、ともすると思考そのものの展開や帰結、最悪物事の捉え方からして違うという風に考えることも出来る。何にせよ当該者の僕には、他人の僕に対する「本当のところの」もやもやや不快感を知りうる術はない。僕が考える予想に大体合致しているようではあるのだけれど、それを指摘したところで一向にそれそのものは消えないようなのだ。しかし世の人々は僕と誰かの関係のようなことは殆どなかったり、起こり得そうなっても口をつぐむ「大人」な対応で切り抜けるらしい。誰かに対して何も感じず、何かを感じてもその人へぶつけない、その人と触れ合わないことが、大人なのだろうか。成人した今になってもこの思考を承服しかねる。話して分からぬ人であるならそうだ。僕も実際にそう見做す人間は何人かいる。そう自覚しているからこそ僕はあらゆる言葉を俯瞰するし、そしてそこから得たもの、その結果を「僕の言葉で」出力する。一般論のこねくり回しは普通の頭を持っていれば出来る。既存でない概念、新たな物事の捉え方は、双方向ではなく、下流へ流れる川のように一方的な教授によってもたらされるものだ。お互いの差異、分岐点を知りうるには、お互いのものさしを持ち寄って見比べるほかない。そうでなければ、相手のものさしを奪い、己のそれと同じものを与えるだけでしかない。お互いに話すということは、話して分かると見做していることであるし、話すだけの意味がある相手と思っているのではないのか。そう思われていないのであれば、僕も持ちうる言葉は少ない。


くるくると考えてみて得られる結論は何度試みても同じ。僕が異なるのだろう。僕がおかしいのだろう。大体どこがあなたがたと違うかの見当はある。その違いを「違う」と感じるからこそ僕は違えることしか出来ない異常者なのだろう。適応出来る、出来ないではない。する、しないの話であり、故に僕は世間から逸脱「する」自らを狂人と信仰するしかないのだ。


拠り所はある。居場所は、どこにもない。