明るく振舞おうとする。朗らかに努める。素晴らしき明日がやってくると信じ、夢を語り汗水垂らして努力してみる。反動は、ひとりの時やってくる。
ならば暗く振舞おう。消極的に何事にも関わらずに生きていこう。明日は来るが今日の延長でしかなく、それが巡り巡っていつか来る最後の時が救いだと信じて生存しよう。反動は、誰かをみた時やってくる。


どう生きろというのだ。それらしい教示を与えられたところで、そんなものは物心ついた時から、健康な五体を与えられたが為に知っている。そうできないから、そうしてしまうことで何もかもが駄目になるから、今のまま今をどうにか生きるしかないのだ。どうしようもないなりに、生きたいと望んだから。そうするしか手段を知らないから。いくら考えても、こうする他ないとしか、結論できないから。
思わせぶりな言葉で、僕をまた過ぎ去ったところに引き戻さないでくれ。そんなところは何百篇と通った。そこには何もない。そこは重要でもなんでもない。それには分かれ道なんて存在しない。行くべき道はたった一本で、どう歩むか、誰と行くか。ただそれだけが重要なのだ。言いたいことは分かる。それが可能であったなら、僕はこんなではなかったはずだ。この話は、そんな風にしか語ることが出来ない。


あるいはこれを弱さとし、上限とし、乗り越えろというのであろうか。それならば、なおさらこう言う他にない。そんなもの、冷たい石の下にしかないではないか。あると本気で信じられるならそれでいいが、それはただの感覚的問題であって、本質的には同様の構造的問題が発生している。単純に二次元的な過程を経るものではない。それが大いに問題であるヒトがいるように、それが些細な問題でしかないヒトもあり、解決し超克するにしたがって三次元的に座標を移動するばかりで、決して解決に至る――相対的にみるのであればこれすら解決とは呼べない――原点に届きはしない。
あるいは、これらの問題全てを解決する概念こそが「悟り」というものであるのかもしれないが、無神論者に無宗教の僕にはあいにくその手の概念は持ち得そうにない。
聖人君子になるだけの簡単なお仕事です。ヒトを生きるのも大変なものですね。