適当に日銭さえ頂戴できればいい、酷い肉体労働でなく、ある程度要領も覚えていた、そんな理由で戻ったバイト先。僕が居ぬ間に同僚の半分が入れ替わり、そして僕のいる間にも同僚はめまぐるしく増えては減った。
僕が舞い戻ったのとほぼ同時に遠方に三号店を開き、そちらで続発するトラブルに、僕の居る一号店はもとより二号店まで振り回され、特に最高責任者=店長のいる一号店の混沌は苛烈を極めた。明後日の出勤時間が分からない。というより出勤なのかすら分からない。たぶん詰め込まれているのだろうとマネージャーに尋ねても「もうちょっと待って」と言うばかり。シフトを伝えられないまま自宅で呆けていたら電話で呼び出され「今日出勤だよ何やっているの」。昼前にやってきて二十三時過ぎまで働き、その足で三号店へ向かう生活を続けること数ヶ月の店長。その間休みほぼなし。ひっきりなしに一号店に訪れる二号店店長、三号店社員、スーパーバイザー、オーナー。故にバイト二人で時間あたり百人の客を捌きつつその他業務も平行して敢行。過酷を極める勤務体制。一般人としての生活を完膚なきまでに否定する勤務時間。薄さの限界に挑むかのような給金袋。彼女の気合で息を吹き返すこと数限りなし。
実際、彼女の存在がなければ、僕はまた今年の初めと同じ状態になっていたのだろう。鬱屈し擦り切れて、文明的生活の終焉の訪れる決定的な時をただ待ち、浪費するだけの日々。ただ生きることを生き、死ねもせずに存在するだけのもの。あの時を思い返すと、うすら暗い歓びがまた首をもたげはじめる。「限りある人生、故にそれは素晴らしい」、実にその通り。終わりが来るのは素晴らしいことなのだ。終わりを待ちわびるのは望外の快楽なのだ。さあ、終わりよ来たれ。終わりを終わった時にこそ僕は救われる。


確かにそれはある種の救いだったのだろう、と今では思う。彼女は「救ってくれた」と言っていた。とんでもない、救われているのは僕の方だ。失意と諦観と絶望の淵にあって尚踏みとどまれるのは、ひとえに彼女の言葉が、まなざしが、気持ちがあるからに他ならない。
ああ、しみじみ思い返しても、まったく酷い環境だった。十三時から二十三時まで立ち尽くし喋り倒し。まだ週五回出勤だったからいいものの、これで休憩三十分、息つく暇ほぼなしというのは、ちょっとした拷問に近いものがある。同僚の都合で二週間と少しばかり連続勤務のあった時は流石に閉口した。音声をうまく発せないという意味で。
あまり僕は信じたくはないのだけれども、もしかすると僕は対人恐怖症かアガリ症、あるいはパニック障害でもあるのではないかしら、と思うことがある。一人で電車に乗るときは、ヘッドホンを装備してドア脇に張り付き外をじっと眺めていないと、呼吸が上手くできなくなってしまう。誰かと一緒だったりするとそうでもないのでこれは色々と疑わしい。ついで、店では電話に出ると確実に言葉をかむ。店名すらまともに発音出来ない。接客になると、もう酷い有様である。よくぞ僕なんぞが雇われ使われたものだと思う。お客様が大量に並ぶ、あるいは多少ぶっきらぼうな応対をされる、これだけで、もう駄目なのだ。声は出ず手が震え、顔がひきつる。それを不機嫌あるいは無愛想と受け取られてしまえばもう完璧である。いっそう萎縮した僕は赤面症もあらわに、何も出来なくなってしまうのだ。
とはいえこれは重度の時で、軽度であれば何とか呼吸を整えて対処出来る。暫く接客以外の作業に没頭するだけでも大分回復する。最近では彼女のことを考えるのも効果的だ。ただし、これは別の意味で仕事にならなくなるのだが。


そんな理由で、まずこの仕事は向いていないのだろう、といい加減納得し、新たに仕事を探しつつ、さらに遠方への移住を計画して、晴れて今日無職への凱旋を果たした。今度は前回のような失意の辞職ではない。意思をもって辞めてやると宣言した結果であるからして、僕的には克服へと至る重大な足がかりなのだ。これで、やたらとなれなれしく話の回りくどい同僚や、理由なんぞお構いなしのお局様、理解しがたい年端も行かぬ女子ども、唯我独尊マネージャー、昼行灯店長らともお別れである。
清々しい気持ちで最後の業務をこなしていると、なれなれしくも回りくどい話し方で「一緒に働くのも最後になるから何かプレゼントする」と言い出した同僚。いやね、君のそういう低俗な仲間意識とか、恩着せがましい所とか、僕にはビタ一理解できないのだ。いや、理解はする。同意できない。僕は君にそういうものを望んでいやしないし、望まれても困る。徹頭徹尾話し合ってもいいが、リスカ痕だのを見せられた手前、正直なところ面倒くさいのだ。僕は君の仲間ではない。同類でもない。傷の舐めあいは出来ないしする気も毛頭ない。つまるところ、不毛ではないか。これまでの話の端々から、僕と彼は相容れないものだと理解している僕の脳は、速やかに「適当なのを選ばせてそれで満足させればよい」と結論付けた。そして運ばれてくるうまい棒五本。満足そうな彼。君がうれしそうで僕も嬉しいよ。本当に。
あまりの嬉しさにげんなりしていると、今度は店長があからさまに異常な量の品物を買い物カゴへ放り込んでいる。見て見ぬ振りをしていたが、案の定帰り際に二十号袋に詰め込まれた商品と手紙を渡され「ご苦労さん」ときた。どいつも、こいつも。手紙の中身は当たり障りのない労いの言葉と、「相鉄線沿線がいいぞ」という店長らしいピントのずらされたアドバイス。しっかり詰め込まれてるこのコーヒー、でかいだけで不味くて嫌いだって言ったのに。「天野の味覚はアテにならねーからな。不味いってんなら売れるな、仕入れよう」って言ったのはどこの誰だ。捌けない上に場所とるのを仕入れまくりやがって。並べる時面倒でなおさらこのコーヒーが嫌いになったってのになんてことしやがる。嫌がらせか。
むしゃくしゃしながら、なぜか固く結ばれたうまい棒五本入りのビニール袋を開封。底の方に、同僚が「友人がスイス土産に買ってきたから」と勤務前にくれたコインチョコがみっしり。ああもう、どいつも、こいつも、本当に。最初もらった時に「最後だから沢山あげるね」って言われたけど断ったじゃねえか。せっかくの土産なんだから一人で食えよ馬鹿。甘いもの好きなんだって言ってたろうが。郷から出てきて友達居なくて寂しいとかしらねえよ。郷に居たってろくに友達いなくても全然平気な俺とは違うんだ。ていうか数じゃないだろ、それ。そういう所が嫌いなんだよ。くそ。


これだから生きるのは嫌だ。僕には重い。圧し潰されそうになる。何でだよ、もう。