依存と共生の境目はどこであろうか。
僕と彼女の関係性がただの知り合いから恋仲になるにあたって、漠然と考えていたことは、お互いが地面から伸びる一本の木のようなものになるべきではないか、ということだった。
ヒトはお互いを支えあって生きているから「人」なのだ、なんて戯言は、「そうだね、対抗心や敵対心を燃やすことすら、相手がいるからこそ出来ることだものね」という皮肉を生み出すものでしかない。僕の物事の考え方の根底にはいつだって、「ヒトは生まれてから死ぬまでひとり」、「相互間の完全な意思疎通や理解は在り得ない」、個は個でしか有り得なく、ある集合が集団のように見えるのは、それはただ言葉という記号を目印に同じ方向を向いていると勘違いし、思い込み、言い聞かせているだけに過ぎない、一つ石が投げ込まれれば、お互いがお互いの顔を見合わせて「なんだ『お前も』違ったのか」と雲散霧消してしまうものである、といった風なものが渦巻き沈殿し、それが数々の思考や感情、自分に強いた規範のろ過を経て、上澄みのみが表層に出てくる――つまり態度レベルとしては、誰に対しても軽薄そうな印象を与える、深く踏み込まない、いつでも相手や自分が見限られたり見限ったりできる態度と関係性を保つ――のが僕の常であった。
そんなひねくれた思考からすれば、恋仲であっても僕と彼女は必ず分かり合えない、決定的な部分で僕と彼女は異なる存在であり生物であり、ならばそれを知り認め、それでも尚、共に生きることを望む、そういう姿勢が必要なのではないか……という帰結は、相手を見限り「居ないもの」とするか、にこやかに応対する裏で冷淡な顔をするかのどちらかしか対人関係を築けなかった僕にとって、割合結構な変化であるし妥当な所ではないだろうかと考えた。根を張り自力で自らを支え、それでいて枝葉を伸ばしあう……それが、一本の木同士たる、ということなのではないかと。
しかし現実は一週間も会わないと、それはもうめりめりと心の表皮がめくれ落ちていく。まるでガスの抜けた風船のようにしぼみ地に臥してしまう。何が一本の木か。顔も見れないだけでこの有様である。全く、友人Fよ、よくぞ君は耐えられたものだ。やはり君はいい男だと信じる。浮気性な部分を除いては。


気が落ちれば思考も落ちる。我ながら、そのことについて記憶を呼び起こす、それだけで自己嫌悪を一生分使い果たせるのではないかという程に、杞憂懐疑自虐絶望諦観自棄に堕落が混在した最高に最悪な精神状態と思考回路で、つい昨日には彼女にすらとうとうとこんな話をする始末である。本当に、面倒な脳みそを持ったものだ。でもこれが僕で、この流儀には改善や修正はあっても、越境と看過、妥協は許されない。それを違えれば、僕は僕を生きることが出来なくなる。僕が僕でなくなったとき、これは彼女の彼氏でいられるだろうか。


一方では、彼女さえあればいい、お前の些細な流儀など捨ててしまえと囁く声もある。事実すでに僕にとって彼女は何よりも優先すべき存在である。しかしながら彼女の存在と現在の関係性は、僕の介在があってこそであるわけで、そこに自己犠牲や僕の喪失といった要素が含まれていてはならない。それは結果的に彼女の存在、僕と彼女との関係性の喪失を意味する。
であるならば、流儀を捨て彼女と向き合い生きるのは、どうであろうか。これが苦悶の種なのだ。あまりに掘り起こした自己の流儀と規範の穴が深すぎる故に、その穴自体が僕になってしまっているようなものだ。それを埋めならせば僕がいなくなるし、もし僕を捨てさるとしても、埋めならせるかどうか、埋めならす間にこれがどうかなりはしないか……。端的に言って怖いのだ。変わることは恐ろしくない。その結果彼女を失うことになったとしたらと考えてしまうと、足が竦み手が震える。だが立ち止まっていても失ってしまうことは明白で、ならば、と残る手段は流儀をそのままにどうにかする……それが上手いこといっていれば僕はこんなに苦しんでいないのだ。恥を知れ。


さて、依存と共生である。僕は彼女の存在がないといつもに増して*1不安定になるようになってしまった。これは依存であるか否か。僕は彼女さえ笑っていてくれさえすれば、他の何もかも全てどうだっていいのである。これは依存であるか否か。そもそも、こういう間柄の二人はどういう風にしているものなのか。どのような理想や目標を持てばよいのか。
僕の漠然と持っている感覚を「お題目」的に言うなれば「お互いに高めあっていける仲」とかそういう言葉になるのだろう。僕は彼女を知り、彼女に習い、彼女の枷や重荷になりたくなく、逆に彼女のそういうものを一緒に持って歩きたい。それが出来なかったり、良くないことであるならば、せめて隣に居たい。これは共生だろうか。


依存の何が悪い、と囁かれても困る。僕は弱い。彼女に依存すれば、確実に彼女の重荷になることは分かりきっている。それでいいよ、とか、その時は云々、と言ってくれるから尚困るのである。いや言ってくれなくても多分地上四階から大空へ向かって羽ばたく程度には困るのだが、そもそもこの煩悶自体ですら彼女にとっての重荷になっているわけで、結局の所僕は諸手を挙げてぐるぐると床を転げ、六畳半の中心で「人生終わった」と叫ぶことしか出来ないのであった。愛を叫べ。

*1:常に不安定なのは異論のないことと思う