芸術の「進化」
http://www.technorch.com/archives/2007/10/post_213.html


進化、進化か。その道で食っている本職の方の言葉は重い。でも、これは進化ではなくて変化ではないだろうか。つまり進化したのは「ここ」であって、それによって引き起こされた変化である、という観点。

旧来の情報伝達手段、流通手段、広報手段はとかく手間と時間と金がかかった。素晴らしい技能や才能を持ちえていても、それを「知ってもらえねば」それは存在しないのと同じことだ。観測されえぬ事象は存在し得ない。この場合の主観は他者であり、自分でいくら認めていようともそれを周知しようとせねば、社会的には無なのだ。
こういう訳で、まず情報網が出来上がる。作品の送り手たちが集い、それを求める者たち、求めるかもしれない者たちを集めだす。そして次に流通だ。素晴らしいものは遠く離れた場所へでも、ふみ一つで送り届けてもらえるようになる。最後に広報。作品を作品と成立せしめる段階での利益が、順繰り順繰りに発達してゆく。それが今の企業でありレーベルであり同人でありamazonであり楽天であり……というわけだ。
全ては、送り手たちが送り出すための仕組みであったはずのそれが、それを回す段階でそれを回す者にも利潤が生まれ、そしてその回す利潤の方が送り手たちの送り出す価値よりも重要視されだした時に狂ったのだ。送り手たちはいまや「雇われる」側に立っている。「望まれる」側に立っている。好き勝手に出来るのは一部の成功者たちだけであり、そしてその成功者たちですら、間接的に数多の送り手たちの上に座っているだけなのだとしたら。
とんだお笑いの狂気の沙汰だ。表現したいことをやっていたらいつの間にか表現させられていた。何を言っているか本当に分からない。自分と誰かのための、本当の作品は、最早それを成し得る者の頭の中、あるいは個人的領域の中でしか生まれないのではないかという時代があった。そして「時代」が来た。


誰でも、自分の好きに表現できる場が生まれた。広報も伝達も流通も自分でやればよい。そこにあるのは、回す利潤を求める者、その介在の否定。送り手と受け手が直接繋がり、電子情報的やり取り、あるいは、皮肉にも全時代の遺物である流通によって、送り手から受け手へと作品がもたらされる。さらには、送り出すだけで広めることのなかった送り手に、自主的に広報を務める賛同者も出てきた。利潤のない回転が始まり、そしてそれは今も加速している。これは変化であり、発端である基本構造に立ち戻っただけであり、「こちら」の影響を「あちら」が受けただけに過ぎない。


試しに問うてみよう。「何のためにかいているの」と。資本の為だろうか。虚栄心の為だろうか。そうならばこの変化は耐え難いものになるだろうし、そういう意味での「才能」を潰えさせる結果にもなりうるのだろう。「お手本どおり」のものは安心できる。だからより良いお手本、より良い流儀、より良い作法、より良い体系化。そういった「安全」な「ふだ」を切り続けてきたが故の「飽き」による「閉塞」。自業自得ではなかろうか。そうしたかったのだろう、あなたがたは。そうなりたかったのだろう、あなたがたは。そして結果はやってきた。それはいつだって望むものとは限らない。


だから開放するのだ。混沌を招き入れる。閉じ、整然とした系は緩やかに熱を失うだけだ。抗うには混沌と整然の淵に立てなければならない。立たなければ、ならない。