昨日まで引きずっていた暑さを失い、急激に色をなくした秋の空。きっと高く澄んでいるのだろうに、夏の最後の抵抗か、鈍色の雲が薄ら寒い空気に覆いかぶさるようにして広がっている。
雨が、降る。


ガラス越しに、車道へと目を向ける。店の前を横切る川と線路に沿って通っている道で、平日の朝と夕方には近所の大学へ通う学生が、車がすれ違うのにも窮屈な道いっぱいに溢れかえり、アリの群れのようにぞろぞろとやってきては、蝉にも負けぬ騒々しさでぞろぞろと去ってゆく。蝉ですら時節を弁えているのに、彼らはそうではない。しかしアリのように何をするにも彼らは一緒なのだろう。会計は別々に済ませてゆくのに。
虫の死骸や埃、水垢、その他もろもろの何かで薄汚れたガラス越しに、彼らの影を探す。今は正午過ぎで、道を行き交う学生の姿はまばらだ。午前と午後の講義の丁度境目なのだろうか、うきうきと帰る学生と、いそいそと足を速める学生が時折すれ違う程度で、客足すら少ない。
雲の薄膜越しに届く陽光は視界全てのコントラストを落とし、草花は萎れ、定期的に耳鳴りのような音をたてて電車が通り過ぎる。聞き耳を立ててみようか。有線かラジオから、ノイズが聞こえてくるかもしれない。雲が段々と濃さを増すごとに、ガラスの外側は輪郭を失う。風景は灰色に飲まれて色彩を失い、ガラスに映る僕の姿ばかり濃くなって、曖昧で、色を失った僕が僕を見ている。


こつこつと何かを叩く音がして顔を正面へ戻す。学生が僕を見ながらカウンターを指でこつこつと叩いていた。お客様だと思い品物を探す。見当たらない。ではきっとファーストフードか煙草だろうと言葉を待つ。ただ指だけが動いている。
カウンターへと視線を落とすと、アップルパイの値引きポップが貼り付けられていた。学生へ視線を戻す。こつこつ。


アップルパイを手に出てゆく学生を見遣りながら考える。果たして、本当に過程なのだろうか、と。
酷い境遇に生まれついていようと、真っ直ぐに育った人はいる。その逆も、もちろん、いる。それらの思考材料から考えられること――最も重要なのは、経験や過程ではない。
現代社会というシステムにおいて、大抵のことは経験してしまうし、過程は踏まされるものだ。それが義務教育であるし、少年少女たちのコミュニティであるし、少しでも生産性のある道具を育てたい人たちの意図でもある。例え「その当時」に経験ないしは過程を経られなかったとしても、ある程度の年月生きていればよほどの不運か幸運かでもない限りは、やはり一通りのことは通り過ぎるはずだ。そして人は学習する生き物であるし、幼児期の学習が成人した後の学習で上書き出来ないはずもない。器質的に「不可能」でない限り、あることを「そうしない」理由は「そうしたくない」という極私的なありふれたものへ収束する。
つまり。彼は僕と話したがらなかったし、彼は言葉なしに要求を通したかったし、彼は「僕がどう感じるかなんて毛の先ほども」気にかけなかった。それは何故か。理由は簡単で、例え「そうしなくとも」代わりはいくらでもいるしあるからに他ならない。


人は学習する生き物だ。人によって態度が豹変するなんてのは極当たり前の事であるし、それが自分の利益のため、なんてのは常道過ぎて言うまでもない。別段深い間でもない相手であれば、利用するだけ利用して、自分に害があると思えば切り捨てる、そういう扱い方をする人は確実に存在する。それが例え実利でなく、精神的充足のみの関係性であるとしても。
だから。彼らは空気を読めない訳でも、行間を読めない訳でもない。彼らは元から「読む気がない」だけなのだ。何故なら僕と彼は赤の他人で、店員と客の間柄で、僕はただ利用されるべき存在でしかなく、つまり僕が生きて呼吸して考え感じるものだと認めず、対価を渡せば相応のものをくれる機械程度の認識なのだ。
重要なのは顔が見える、顔が見えないではない。言葉が通じる、通じないでもない。僕にはディスプレイの向こう側の人が見える。彼には目の前のばけものすら見えていない。僕は三十センチ先も矯正なしには満足に判別できない。彼は矯正なしで僕を認識できる。


小さい男の子が一人でレジまでやってくる。手には十円と、それが対価のガムが一つ。会計を済ませて屈んで渡す。笑顔と「ありがとう」の言葉。
異人さんがカゴ一杯に大量のワインを運んでくる。持ちやすいように分けて、袋が破れぬよう二重にして渡す。日本語の数字が聞き取りづらいらしいので英語で伝える。会計を済ませると丁寧に「アリガトー」の発音。


外では襟を立て、コートまで着込んだ人が首を縮めて歩いている。外は熱を失ったはずなのに、店内は空調の異常や冷凍庫の発熱で蒸し暑い。雲に覆われたまま陽が沈む。もうじき彼らが大挙してやってくるのだろう。その中で何人が僕を見てくれるのだろうか。あるいは隣に立つ同僚を。
何を学びに行ってるんだろうなと思う。生まれで人は決まらない。学んだことでも人は決まらない。それの上に立って、どこを見るか、何に手を伸ばすか。いつだって人は自らを規定し投企する。彼らがそれでいいと思うならそれでいいのだろうし、もし仮にそう考える人が多いならば、それはただ僕が少数派の異端であるというだけであって、生き辛いやり方を「そうしたいから」選んでいるに過ぎないのだ。
街の明かりで雲が照らされている。いつの間にか分厚く垂れ込めたそれを見遣って、僕はしみじみため息をついた。


ああ、雨が降る。