暫定でアカウントを取る。また無料サーバーに戻ってしまったのが悲しいが贅沢も言っていられない。とにかくなにしろ場が必要だし、それにはあまり、はてなやそれに類するBlogサービスは適さないように思う。


ところでふと思ったのだけれど、昨今は動画の興隆、そのちょっと前はFLASHやGIFを使ったアニメーション、それらと同時に平行して色んな楽曲が取り上げられたし、絵やCGを描いたりする人も増えた。ところで、純粋に文章だけで何かその手の面白いことがあっただろうか。
これが僕の勉強不足ならそれでいいというかむしろそうであって欲しいくらいなのだけども、Web上での創作でも、どうにも文章ってあまりぱっとしないものなのだろうか。動画や音の情報量にはなす術もないということなのだろうか。いずれ文字はそういう伝えたい動画や音みたいなものを媒介するただのURIのようなものになってしまうのではなかろうか。あるいは、受け取った情報の解釈、整理をすることが難しくなったり、辛うじて手探りで共通の認識を持っていたと思い込んでいる事柄の、相互間の完全な分離を引き起こして意志の疎通すら困難になってしまうのではなかろうか。人はものを考える時、果たして言葉と動画と音、どれを使っているのだろう。言葉なんてものを使っているのは最早劣等種なのだろうか。最近の人たちはもしかすると脳内で自由に映像を切り貼りしてそこに意味や、言葉でいうところの文脈やらを見出しているのかもしれない。
意味論と表現、意思の疎通の三次元解がそこに収束するとするならば、いずれ人は口で話す言葉以外の表現伝達手段を実現してしまうのではないか。そこにはきっと形も音も動画もなく、完全な意味と意思の接続があるのに違いない。
それもちょっといいかも、と思ってしまうけれど、でもそんなの、つまらないでしょ。分からないし分かろうとするから苦しいし面白いんだ。


とここまで書いて電車男とかあったのを思い出した。でもあれはなあ、ものとしてはWeb日記だとかの延長で「お話」ではない。動画や音では創作的なものが結構取り上げられているのに、やはり文章になると、あまりない。Webから出版業界に出て行く人はいるのに、こっちでそこまで脚光を浴びないってのは、文字離れというよりも「お話」離れという方が正しいような気がしてくる。やはり情報量の差なのか。それとも表現としての差なのか。脳内風景まで他人任せにしちまっていいのか。同じ言葉を違う風に受け取って「えーあそこはこうだろ」っていう認識の差の突合せはもう必要ないのか。ただ「あそこの意味は何なんだろうね」っていう解釈論だけ出来さえすればいいのか。


僕はどうでもいいです書ければいいや。多分みんなこんなだから文芸界は輝かない。