著作権法非親告罪
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おいおい、と思ってふと記憶の片隅に以前にもこんな話、なかったか、と引っかかるものがあったのだけど、あれがこれなのかそれともまた別の件だったか思い出せない。確か有識者が検閲的プロセスを以って創作物をどうこう、って話だったような気がするのだけれど。


それはともかくとして、何しろこれだ。興味を持たれた方は是非とも二十二日の記事二十四日の記事も参照されたし。
結局法律自体は文章であり文言であり解釈され得るものでありそしてそれを使う社会は流動的で相対的なものなのだ。だとするならば、立法としては可能な限り解釈し得ない限定的な条項として立てられるか、あるいは解釈を前提に「どういったものがあればこうする」の「こうする」の部分だけ突き詰めてしまえば良い。竹熊氏や竹熊氏が取り上げている松浦氏の意図するところはそこなのだ。法律は固定された言葉であり、それはまるで「象の足」のようであるとも言える。動かすには多くの人がいるし、実行するにも長い時間をかけなくてはならず、そして「それ」自体は触る人によって蛇とも柱とも言われるのだ。


法治国家だ民主主義だとはいうが、民主主義には数による対比の問題が付きまとうし、法律、とりわけ立法なんてのはそれこそ民主主義の鉄火場ではなかろうか。裁判やるにもまず法律である。利権と慈善と正義が渾然一体になって投げ交わされ、一塊になって軟着陸したものが法律ではなかろうか。当然それらに関わった誰しもが、違うそれを見ている筈である。


だからこその警鐘なのだ。今はまだ検討段階であるし、「また中間搾取の材料ですか」というのも穿ち過ぎた見方であるかもしれない。しかし、だからといって何の考えもなしに諸手を挙げて歓迎すればいいかといえば、それは絶対にノウ、だ。少しでも暗いところがあれば照らして見なければならない。暗がりに隠れていた小石に躓くようなことは避けねばならない。
現行法では取り締まりきれなかったり、法律自体が現実に追いついておらずどう扱っていいかも分からない、そんな事態も起きてきている。どういう形であれ、大きな時代の境目、過渡期であると言っていい今、創作や文化に関わる法律は変わるべきだし、変えて行くべきだ。そういう意味ではこの話はとてもいい試金石になりそうではある。法律なんて所詮は「みんな」が「この方がいい」と決めた決まりごとでしかない。つまり世論が動けば法律も動く。そして今回の想定されている「場」はここ、WWWでもあるのだ。
何とも、流れのある話じゃないか。