独り言、独り言、独り言!
よろしい、ならば独り言返しだ。


僕は「他者」という言葉を便宜的に使いましたが、これは「自分以外の全て」と置き換えても何の差し支えもありません。正に意味するところがそれだからです。人はあらゆるものを見、聞き、感じ理解する手順において、ほぼ確実にその対象の陰に自分ではない人、あるいは対象自体を擬人化した存在を仮定しているように思うのです。そこで取り扱われる彼あるいは彼女を「他者」としている、というのは、僕の伝わり辛いだとか難解だとか言われる話し方であってもどうにか理解いただけるのではないかとは思うのですが。

そしてこのような段階を経て――帰結までの道程はどうあれ氏もそう仰られていますが――僕は「人間は自分以外を知りえることはない」と断ずるのです。ありとあらゆる情報の受け渡しでは送信者と受信者の間に埋められぬ断層があり、またそこでやり取りされる情報の種類、通信方式、圧縮展開方式、暗号化その他色々は、決定的に過ぎるほど違うのです。また、仮に正常に情報のやり取りが出来ていたとしても「事実」や「真実」をそのままに扱えるようには人は出来ていません。先に僕が書いた「自分」という他者が間に立ち、「主観」というフィルターでそれらを捻じ曲げ抽出し「解釈」してしまいます。自分が知りえていると「思い込んでいる」事実や真実というのは全てこの段階のものであり、それはもともとの単純な事象とは似ても似つかぬものであるはずです。それは例えるなら量子的概念を扱える「人」が、いざ量子的事象を観測しようとしても、観測者つまり「人の主観」が介在した瞬間に状態が収束し決定されてしまうように。
仮にそれらをそのまま扱える者があるとするなら、それが恐らく世の人のいう神だとかそういう存在なのでしょうが無宗教である僕には関係のないことです。

こういった理由から先日や先々日の文章に至る訳ですが、これを「自分しか見えていない」と言われても「どうしてそんな当たり前のことを言うの?」としか答えられぬのです。多様な意見、主観があるのは重々存じておりますが、僕は「人は自分しか見えない」、この一点においては他の論に同意出来ません。その理由については、昨日書いたものと今書いているものがそれです。


これはあえて言いますが、氏のように「自分の範囲」が広い方もおられるでしょう。しかしそれは僕からすれば危険であるように思うのです。僕が僕の考えること、成すことすべては僕自身のものだ、と言うのは僕の自由です。勝手です。自分の範囲に収まります。しかし、氏の観点では自分以外の領域のものも自分に含まれます。恐らくは全ての齟齬はここにあるのでしょうが、氏のやり方ではよっぽどの聖人君子たる資質を持ちでもしない限り、確実に他者に対して、自分を投影した他者像を当の人に投げかけることになります。つまるところ、自分の範囲外、手に負えない部分に手を出すことになります。ただでさえ歪んだ僕がそんなことをすればどうなるか、この段落を読んで頂ければお分かりでしょう。世の殆どの諍い、争い、問題は、還元してゆけばここに辿り着きます。もっと簡単な言い方をするならば、氏の仰る事は最終的に「主観の押し付け」というものを肯定することになるのです。これは一面的で極端な物言いでしょうが、これをお互いにやり合っているのが今の社会だと思います。
先に一面的で極端である、と言ったように、氏は『私がそうであるように、「他者」を本当に知ることはできません。』と仰っている。これを念頭に置けば、僕がどのような立ち位置であるかはきっと分かっていただけるとは思うのです。「他者を見る」、つまり「他者を知る」と「他者を知ることは出来ない」は矛盾しているのです。語りえぬことには沈黙しなければならない、語りえぬことを語ろうとする場合には無理や矛盾が生じます。それすらも了承する強さを求められているのでしたら、そう出来れば何よりですが、多くの人にはどちらか、特に「他者を知ることはできない」という部分が忘れ去られ、それが原因の問題を眺めている限り、僕にはそうあろうとすることは出来ないように思うのです。
もし完全な理解や疎通があるのであれば、氏の仰るような素晴らしい世界でありましょう。ですがそうではないし、そんな世界であったとしても、僕はきっとまた似たような状態にあったと思います。


氏は誤解されているようですが、希望やら絶望といったものはそれ自体には何ら力はないのです。希望を持っていても諦めていれば何も生まれません。絶望していても意志を持って動いてさえいれば状況は変わります。僕は究極論を夢想しているのかもしれませんが、それに現実が追いついてこないからと躍起になっている訳でもありません。どんな環境であれどんな社会であれ恐らく僕はこの僕であったでしょう。自分の範囲を広げ、他者と積極的に関わりを持ち、その軋轢の中に身を置く、そういう人間社会の根幹とどこか相容れぬ部分を持った人間は、恐らくこうなります。それが正しいことかと問われれば、僕からすれば僕のこの考えも大いに問題を孕みとうてい正しさとは対極にあるとしか思えません。つまるところ僕は自分を正しいとは思っておらず、ただそうしたいからそうしているに過ぎないのです。
可能性については大いに意見がありますが、そうするとただでさえ長くなる文章がさらに長くなるので程ほどに自重するとして、とりあえず可能性という言葉を使うからには「あらゆる可能性が可能性足りうる」という階層構造を考えてみてください。終わり、終局ですら可能性であるとはいえないでしょうか。同様に究極にも可能性はあるでしょう。ひるがえれば、終わりのない可能性という道に入り込んだ時点で終わっているとも、可能性こそが究極であるともいえるのではないでしょうか。
少々レトリックじみてはいますが、そんな訳で僕としては可能性という言葉はあまり好きではないのです。ベクトルを定められなければ自由方向に行ってしまいますので。


長々と書きましたが、真の楽観主義とは悲観の先にあると考えます。考えうる限りの負の部分をあげつらい目の前に掲げてそれでも「どうにかなるんじゃね」とのたまう神経を楽観と言わずしてなんと言うのか。その点を指して「現実が見えていない」といわれるととっても傷つきますが、その点においても「なるようにしかならない」というリアリズムを掲げておきます。そして再び自己完結。