Re:結城理央さん
いつぞやの件ではあれやこれやとお節介をやいた僕です。お久しぶりです。

大変失礼ですが、ご自身しか見えていないように思えてしまいます

「他者」を見るとはどういうことでしょう。

正論は、それを言う人間によって、受け取る側にとっての意味が変化してしまいます

これは自身と他者にも当てはまる言葉だと考えます。つまるところ、他者を「見ているつもり」になっている自分しか誰しも見えていない。「他者を見る」とそれでも使われるのは、均一的な社会や共同体、道徳理性観念で生きているが故に思考のトレースがし易いから、言わば「他者を自分に置き換えて」ものをいうこと、ということなのでしょう。
ならば「私」の見聞き読みしているこれらは本当に「他者」でありましょうか。
僕はいつだって僕でしかなく、自分の鏡写しのような「他者」を見続ける強さなどないのです。重くはないでしょうか。苦しくはないのでしょうか。見ている相手を解釈し理解し再構築しているのは僕なのに、その対象は僕ではないのです。
「他者」を見、何かを感じ、そしてそれを「そう受け取った」自分がいて、「そう見えてしまう」相手が目の前にいて、それが例え嫌で拒絶したくともその対象は「他者」なのです。手前定規な考えで「他者」を「見る」、逃れえぬからこそ僕は見たくない。聞きたくない。言いたくない。
どうしようもなく僕は僕なのです。人の子で人間で肉があり骨があります。誰かが言ったような超人でもなければ、何かしらの力を持っている訳でもなく、ただろくでもない頭をぶら下げているだけのデクノボウと言われたって何一つ言い返せやしないでしょう。

社会にご自身を置かれるのでしたら、社会に対してもう少し協調性を持つべきですし、でなければ社会を変えるくらいの行動力が必要です
逆に社会にいることが不服でしたら、社会から離れて生きることもできるでしょう
「目を閉じ、耳を塞ぎ、口を噤んで孤独に」というセリフには、そういった意味があったのではないでしょうか

だから、だからこそ、誰しも「社会」とやらから逃げれないのです。生まれ出て初めの一息を吸うよりも前、僕が僕となる以前の胚芽の時既に、社会に組み込まれ関係性の嵐に巻き込まれました。望もうと望むまいと「そうなってしまっている」以上、「自分は関係ない」とでも思い込んで隷属するか、それとも仰るように自分をすり合わせるのではなく「社会」そのものを自分の形に合うように削らねばならない。ここで消極的かつ前向きであれば喜んで馴染みに行くのでしょうが、生憎そういった社会適合性のような気質は僕には与えられず、また望みもしていません。個の関係性の集合が社会であれば、個は個であっていいと考えます。それが反発し合おうと引き寄せ合おうと、個の集合のそのまた集合を繰り返した「社会」の前では些末なことに過ぎないでしょう。全体を論じるならば、僕はそう結論付けます。
では、周囲の、より狭い意味での「社会」ならばどうか? 数ヶ月放置の後の文章に目を通されてらっしゃいますからもうご存知でありましょうが、僕は端的にいって「死にたがり」なのです。しかし未だ生き永らえているし、こんな風に大口も叩いている。この矛盾は先に書いた通り「僕が僕である」から、つまり生を得て最初にもたらされる人間であるということ、「自分の体」との関係性によるものです。
いつか僕は「自分で自分の命を絶てる人を羨ましく思う」というようなことを書きました。それは、どうしようもない理性の底にある本能、そのタガを、意志の力で取り払えることを――少々皮肉ですが――体現しているからです。
僕は「死にたがり」に過ぎず、自分で死ぬことも出来ない。あらゆる関係性から開放されるにはそうするしかないのにも関わらず。
この世の中で社会のないところがどれほどありましょう。そこには社会の介在なしに行けるのでしょうか。そもそも自分が自分である以上自分との関係性は最後の時まで絶たれないのです。僕と私の間にも社会は確実にあるのです。
そして自殺すら出来ない、最も身近で最も強い社会に決別……あるいは、迎合出来ない者が、どうして社会を変えられましょう。


ここまで読んで頂けていればお分かりでしょうが、僕は今や殆ど「彼」同然なのです。処世の為に嘘を吐き、その裏ではこの体たらく。影響された訳ではなく、幼少の頃、僕が僕となったその時からこの根幹部分において僕は何も変わっていないのです。初めてあの本を読んだ時は自分の様な人間が、もしかするとそこかしこに居るのか、と暗澹たる気持ちになりました。

目と耳を閉じ、口を噤んだ人間になろうと考えた

ところがこの気持ちについて、僕は言葉にし得ぬ部分で納得してしまうのです。結局は「考えた」、ただそれだけ。ないものねだりのわがままです。実際にそうすることなんて現実的に不可能ですし、かといってそうせねばそのうち胸のどこか、あるいは頭のどこかが擦り切れてついには一言の言葉も出てこなくなるに違いないんです。しかしそう考えざるを得ない。いっそのことそうでありたかった。そういうジレンマを端的に表しているのだと僕は考えるのです。

社会に身を置くということは、それだけで人とつながるということです

というわけで、この冗長な理由によりこの点について全く同意いたします。

私としては、飾らず、意地にならず、ご自身に溺れず、素直に生きる力を持ってほしいのですが、「なぜおまえにそんなことを言われないといけない」なんて言われてしまうと何も言えません

生きる姿勢について、僕は僕自身への言葉を持ちません。何故って、もうお分かりでしょうが、僕は僕に何の期待も希望も持っていないからです。何かが出来るとか、そういうようなことは一切考えてないのです。存在ごと消えて失せる以外の、ある意志はあるにはありますが余談ですので割愛しましょう。素直に生きる、その素直もやはり、渡し手と受け手の鏡の違いなのでしょうね。ここでの僕はあちらの僕よりもよっぽど素直です。少なくとも愛想笑いは見せません。「良い子」という意味での「素直」であるなら、僕は「素直」ではないのでしょうが。
そして誰かが誰かに何かを言う、そのことについて何か資格が要るという考えは好きではありません。それが正しければ自省するべきだし、相手が間違っていれば正すべきだし、同意する必然性のないものであれば、そういう事を考える人もいる、と聞くだけ聞いて聞き流してやればいいと考えます。
資格だのなんだのと論旨に関係ないところを問題にし糾弾するのは、相手の社会的な立場や力といったものだけを見ているに過ぎません。度し難い愚かさです。一度道を踏み外したら二度と正道には戻れない、というのなら話は別ですが、そういう方とは話は別以前にお話にならないでしょうし。

でも、こうやって言葉を残されているというのは、この社会にご自身を置きたいということだと思います

これは正確ではないです。置きたいから置いているのであれば、僕の行動はその態度に反する酷く滑稽で惨めなものでしょうが、僕の場合は社会に身を置きたくて置いているのではなく「そうなってしまっているから」というやけっぱちの自棄に近いものです。既に僕がここに在るのですから、死んで何も考えなくなることは出来ます。しかし既に作られてしまった関係性は死んだとしても消せない。僕は解放されるというだけで、それは後に残ってしまう。どうせ残るなら、ということです。どちらにしても滑稽で惨めであるのに変わりはありませんが、そちらの方が納得なり満足なり出来る、ただそれだけの、大昔から言われるテキスト書きのロジックである「自己満足」の言葉一つで表現するに事足りてしまうものなのです。

この社会を含む風景全体に目を向けてみてほしいと思いましたー

僕には世界中で起こる何もかもがインチキに見えてるんです。

私なんかが正論を吐いても(そもそも正論ですらないかも)意味は弱いのかもしれません
ただ、こうやってあえて文字にして記すのも何か力がありそうです

意味を疑ったり、言葉を取り下げるのはともかくとして、僕が読んでしまった故に、僕は書かねばならぬのです。これもまた関係性でしょうか。
残念ながら僕にとって力ある言葉にはなりませんでしたが、そういう事を言えるというのはとても羨ましくもあります。
僕もそんな風に生きられたら、そういう言葉が少しでも届くようになったなら、そんな言葉を届けられたなら、どんな人間になったのだろうと思います。


ですがそうはなりませんでした。だから、この話はこれでお終いなんです。