仕事の用意を済ませて、身だしなみを整え、リプトンイエローラベルで淹れた砂糖とミルクたっぷりの紅茶をちびちびとやっていると、ふと随分昔の、ある大人のことを思い出した。
彼は変な男だった。母親の友人の夫、家族ぐるみの付き合いのある一家の大黒柱。趣味は競馬とゲーム。会う時はいつも横になるか座っていて、競馬新聞に赤鉛筆でよく分からない書き込みをしていたり、来客そっちのけでテレビを観ていた。
僕が今よりもずっと若い頃、千葉の幕張まで、何だったかは忘れたがともかくイベントに行きたいとねだったことがあった。もし行った事のある人なら分かるだろうが、その手のイベントは毎回開場数時間前には長蛇の列が出来、始発に乗っても数時間は牛歩の列で待たされる。時期は真冬で、屋根があるとは言っても、何時間も屋外で暇をするのは、正直耐え難い苦痛だった。それで、どういう経緯だったか忘れたけれど、僕の家よりもずっと千葉に近いかの一家のお宅から、彼の車で送って貰えることになった。
彼は車も趣味だった。ある時は、黒塗りの外車、内装にまで凝ったワゴンを買い、妻や母親、娘にまでも「霊柩車みたい」と言われ、「女には良さが分かんねぇんだよな」とまだ子供だった僕に同意を求めてきたこともあったが、その当時の僕にはやはり良さは分からず、しかし大人の男に同意を求められるという事に幾ばくかの憧れもあって、「カッコイイ」なんて目を輝かせていたものだった。
ともかく、深夜に出発し、まだ電車が動き出す前の明け方に現地に到着した僕らは、まだ誰も居ない幕張のど真ん中で、人が集まりだすのを待った。僕は助手席に座り、持参したウォークマンでJ-POPを聴き、彼は運転席で競馬新聞と睨めっこ。テープが二週目に入ったところで僕はイヤホンを引き抜いて、競馬新聞を覗き込みながら話しかけてみた。二人っきりで話すのは初めてだったのだ。
「その印とかは、予想なの?」
「ああ」
「当たるんですか?」
「どうだろうね」
「楽しいの?」
「そりゃあね」
言葉に詰まった。
ウォークマン、聴きます?流行のしか入ってないですけど」
「いや、いいよ。イヤホンがうざったいから嫌いなんだ」
「そういえば……ずっと寝てないですよね。大丈夫なんですか?」
「あんまり好きじゃないんだ、寝るの」
不可解だ。寝るのが嫌いと言う人は、はじめて見た。今の僕なら痛いほど分かるが、当時の僕はその理由は理解不能だった。
そんな途切れ途切れで不可思議な問答をしているうちに、空が白み、人影がまばらに見え始めたので、ありきたりの挨拶をして、夜明け前の冷え込みへと飛び出し、人を頼りに入場口を探し始めた。


そして暫くの月日が経ち、次に彼と会ったのは病室の中。彼の心臓はその時すでに小ぶりのメロンくらいに伸びきっていて、腕中に伸びた管から送られる薬で無理やり動かされていた。助かる手段は移植のみ。ドナーを待って個室に縛られる日々。だのに彼はいつもどおりで、落ち込んだ風でもなく、ふくよかだった頬が少しこけた以外は僕の知る彼と全く変わらないままだった。献身的に見舞い、看病する奥さんの方が病人に見えるほどに。
何度か見舞いに行き、その度に本当に病人なのかと疑いたくなる風体であったけれど、しかし着々と病魔は彼を蝕んでいて、何度かの心停止を耐え抜いた彼は、ドナーを待つことなく、死んでしまった。
幸か不幸か、僕は誰かの死を、葬式を、その時まで一度も経験したことがなかった。涙雨の振る秋に、しめやかに執り行われる葬儀に僕は参列した。よく分からないまま焼香を済ませ、喪主を務める奥さんにかける言葉も見つからず、幼馴染の娘さんにもどう接したら良いか分からなかったので、ずっと式場の外をうろついていた。やがて棺は運び出され、霊柩車に乗せられた。彼の父らしき人が参列者にあいさつをしている。霊柩車がけたたましいクラックションを鳴らし、目と鼻の先にある焼き場へと彼を運ぶ。
「お別れをしてちょうだい」
彼の奥さんが、泣き顔で笑い、今まさに焼かれようとしている彼の元へ僕を促す。白い花――菊の花だったろうか?――を渡され、開いている棺の、彼の顔の横辺りにそっと添える。死に化粧をしているからだろうか、彼は今にも起き上がって……いや、そんな筈はない。もう彼は彼ではないのだろう。取り返しのつかない何かを失って、彼はもう永久に動く事はない。棺が閉じられ、焼却炉の蓋が開けられた。係員が仕事上の沈痛な面持ちでスイッチを押す。数十分後に彼は真っ白になり、「これが大腿骨ですね。ご立派な骨です」と金属製の箸でつまみあげられることになるのだ。


生前、彼は病室でテレビを観て呟いていた。「やっぱりうるるん滞在記はいいんだよな。いつ見ても泣けてくる」いつ停まるとも知れない心臓を抱えて、彼は涙ぐむ。彼の心中がどうであったかは分からないが、死の淵に立ち、余命幾ばくともつかない中で彼は他人のことで涙し、笑い、そうして生きていた。あるいは、彼はすでにその覚悟があったのかもしれない。
「コーヒーが飲みたいなあ。伊藤園のシナモンコーヒー。缶コーヒーはあれしか俺は認めないんだ」
拘りがあり、違いの分かる、ちょっと変な大人。そんな人も、僕の中でまだ生きているのだろうなと、ふとそんな事を考えた。