Web上での議論は無為どころか有害である、との加納氏の弁。ううん、どうしても、やっぱり、そういう結論になってしまうのだろうか。
僕も長年*1文章を書き、文面で人とやり取りをしてきた訳だけれども、正直なところ、その意味がいかほどあるのか、そもそも意味のあることなのかと、何度も考えたことがある。
考えてみれば、最近の世代は人類史上初めてと言って良いほどに、大規模で高速な文章での意思疎通をしているのではなかろうか。メール、Web日記、Blog、掲示板、SNS。名を変え、様式を変えど、その本質は文章でのやり取り、文章での議論が殆どだ。現代以前にも文字や文章でのやり取りはごく普通に行われてはいたけれども、そのやり取りのスパンの長さや手間を考えると、活発とは言い難いものだった訳で、その点有史以前から使われ、未だ人類が常用している音声でのやり取りと比べて「どちらに伝統があるか」と言われれば、確かに音声でのやり取り、仕草や雰囲気と言った補助的情報を加味した点で、文章には及ぶべくもない。
文章は議論や対話の為のツールとして不適格なのだろうか。特別な理由もなく面と向き合ってわざわざ筆談をするような人はいない。このまま機能向上、効率向上の波に押されて、リアルタイムに音声や動画を送受信出来る様になったとして、完全に文章での議論や対話は根絶されてしまうのだろうか。
書き落とされた文章と音声、仕草の決定的違いは何か、と言えば、文章は形として残る、と言う点だ。今のところいちいち議論の様子を映像に捉えてから、自分の反論を録画して送り返すなんてことは殆どされていないし、恐らくそれでは面と向かった議論とはまた異なるものになってしまうだろう。何故ならリアルタイムの心の動きまでは録画も再生も出来る訳はなく、そして多くの場合人は心にこそ強く突き動かされるからだ。
弁術、と言う言葉が太古の昔からあるように、人はその虚栄心や自尊心で、大抵の場合、相手を言い負かしたり、自分の考えこそが正しいと思い込むものではないだろうか。自省の考えを持つ人が殆どだろうが、何故か他人と口論になると、そんな文字は頭から消えうせてしまう人ばかりである。それは恐らく心がある故であり、言葉が論理を組み立て、論理が言葉を使う筈が、そこに心が介入することで言葉を捻じ曲げ、論理を崩し、心が言葉を吐き出してしまうからこそ、自省と言う論理は遠く彼方へすっ飛んでいってしまう。
文章は言葉とは違い、記録として残る。曖昧な記憶を根拠に水掛け論を展開してしまうような事はないかわりに、言葉の解釈などで揉める事はあるが、概ね真っ当な、論理追求の為の議論の手段としてはなかなかに有用なのではないだろうか。その一番の理由としては、心の介在を極力排除出来ると言う点。発露こそは心なくして不可能ではあるけれど、議論が白熱して論理を心が上回り、ただの罵り合いになってしまうようなことを、クールダウンする時間をおくなどして能動的に避けることが可能だからだ。時間をおいても、文章自体の変質も起こらない。
漸く本題に入れるが、僕がこれまで書き、読み、感じてきたことしか根拠としてはないけれど、恐らくWebでの文章のやり取りは、無意味ではない様に思う。考えても見れば、僕がこの世界へ足を踏み入れたあの時とは、言葉はまるっきり変化してしまった。煽りや罵りばかりか、それとも無味乾燥で事務的な言葉だけのやり取りだった世界に、ローカルな範囲でしか通用しない物ではあるけれど感情を表すフェイスマークが生まれ、それに頼らずとも個々の書き手によるジョークやユーモアはどんどん洒落た物になってきている。加納氏は文章での論議には伝統、常識がないと仰った。では、なければないままで良いのだろうか? 言葉だって最初は常識も伝統も存在しなかった筈だ。しかし今日まで使われてきたからこそ、伝統や常識を持ち得ただけではないだろうか。文字、文章だって例外ではない筈で、恐らくきっと今まで誰もそんな事に目を向けなかったから*2今の今まで顕在化しなかっただけなのではないだろうか。
もっと極論して言ってしまえば、情報として文章を受け取るという事は、文章を読むという事であり、読むというからにはそこに何らかの常識や伝統を適用して飲み下す作業が必要になる筈である。それを「存在しない」と言うのも、変な話ではなかろうか。音声や仕草とは違う、と言うのに、僕らはすんなりそれを受け入れている……何とも齟齬を感じてしまうが、でも普通に出来てしまっている。実はもう大体の伝統や常識は存在していて、ただその細部がほんの少し人によって違い、それを詰める作業をしているのかもしれないなあ、とか、段々と話がずれて結論が出ないまま放り投げて終了。

もしかするともう「狂気」の域に行ってしまっているのかもしれない。

*1:人生の半分近くをここで過ごしているのだからそう語弊はない筈

*2:その頻度の低さから音声や仕草と言ったコミュニケーションと同列に考え扱ってしまっていたから