RSSでのタイムリーな話を考えてる所に、想像はしていたけど実情は聞いたことのなかったtumblrのキナくさい話を耳にする。
大体の経緯は加野瀬氏の該当記事*1を読んでもらうとして、問題の根本は「創作に対する姿勢」と、それに起因する「社会的立ち位置」の違い。何よりもの原因は、お互いの過失や甘えを相手におっかぶせる形で責任転嫁し合っている所であり、それのお陰で多数の人が無駄な言葉を紡いでる結果になってる訳だがそれはそれで学習するまで一生そのままだろうので知った事じゃない。ちなみに大いに誤読や反感をかうような単語が並んでいるけれども、悪意はないので。一応明言。


では創作に対する姿勢とは。これは作り手からすれば、排泄であったり暴露であったり処世であったり色々する。諸々の理由により、誰にも強制されてもいないのに「創作せざるをえない」人種は、殆どの場合その創作の対価を物理的には求めない。それはひとえに、その創作物らは自らの精神を曝け出すものであり、多分に己の汚れ具合を示唆するものであり、わざわざそれを読む、あるいは見る人は、よっぽどの好事家か変人であるという考え。ここは完全な手前味噌。逆に、誰かに強制されたり、あるいは自ら進んで何かを創作し、それを「見てもらう」ことで物的、精神的対価を得ようとする人もいる。そういう人たちにとってtumblrを始めとする自分の手を離れた表現の場というのは、目の上のたんこぶ、疎ましいものでしかない。tumblrを真に問題視し、それに対して拒否反応を示す人はこういった人たちである。
では受け手の方はどうか。受け手は早い話が楽しめればいいのだ。故に「面白いもの」を見つけるための効率化を求めるし、「誰が作ったものか」はより自分の感性に合った「面白いもの」を見つける指標に過ぎないし、近頃は「集める人」のパーソナリティで「面白いもの」を見つけるという方法も存在する。今や「作った人」のウェイトは限りなく薄いものでしかない。代えがたい魅力を持った誰かはあっという間に商業に引っ張り出されてサイトを畳むか縮小してしまう。このまま才能がWebから刈り取られ、作り手の皆がSNSに引きこもったとして、残されるのは一握りの偏屈創作者と、代替しうる才能を持った無名の創作者たち、そしてただひたすら「面白いもの」を追い求める快楽主義者だけなのだ。
創作者の誰かに傾倒したり、信仰したりというのは、まず間違いなく本人にも何かしらの創作意欲や創作経験が介在する場合だ。多少のブログを持っている、サイトを運営している、といった層はこの限りでなく、先に書いた「面白いもの」を追うものたちでしかない。


「面白いものを求める人」と、「何かが欲しくて作る人」の関係性。ここだけで済めば、話は割合簡単にまとまる。ところが、ここで「社会的立ち位置」の問題が出てくる。というのも、著作権やらなんやらというルールがどうしようもなく持ち出されてくるからだ。
最早わざわざいうまでもなく、周知の事実として著作権親告罪である。著作者や著作権人格権保持者が違反者を引っ立てない限り、法的には罪を犯しているが罰せられないグレーゾーン。ここで、法的に問題のない「引用」の要件を満たしている場合を除いて、大きくいくつかの立ち位置が生まれる。
立ち位置の一、「法的にまずくてもそういう場だしいいじゃん」というインターネット原理主義。ここは確かに「情報の共有と公開」が基本原則であり、その基本原則には個人的に大いに同意するところがある。しかしそういったオープンな場に、密やかに行われてきたUG的な要素までをもが開かれて久しい。そこは開き直る所ではなく、覚悟すべき所であり、ただの自分勝手な振る舞いは唾棄すべきものだ。
立ち位置の二、「自分たちが法的にまずいというなら、あなたたちはどうなのよ」というのは、冒頭に書いた責任転嫁の典型である。集められたものが二次創作物である限り、作り手はこの誹りを回避することはできない。といって、相手が違反しているからじゃあ自分も、というのは正しさとは遠く離れたものであるし、加野瀬氏の記事にもあるように、UG的にひっそりと「作り手」がやっている場合、集め公開する行為はそれを白日の下に晒すものでしかない。「Webでひっそり(笑)」などと言われそうではあるが、日陰者には日陰者のルールと矜持がある、ということで理解頂きたい。今の匿名掲示板やら日記やらの人々には理解し得ない概念なのかもしれないけれども。
そして立ち位置の三、「特に注意書きもなかったし、良いか悪いか分からなかった」というグレーゾーンのそのまたグレーゾーンに踏み込むもの。クリエイティブコモンズといった新しい著作権の概念が普及するのと同じように、基本的に備わっている著作権というものも看過され易くなってきたのだろうか。例え僕のように「著作権は破棄する」といっても法的には何の影響力もなく、例えば掌を返して「やっぱり無断転載は駄目です」と言えば通るのである。明記されていなくともそれが誰かの著作物である限り、少なくとも日本においてはその作者の同意なくして他所に持っていけば、それは違法となってしまう。責任転嫁に次いで自己保身に走りその上思いっきり回避したかった部分に突っ込んでいる。見苦しいにも程がある。


別段、これらのやり取りは一方的に「集める側」が悪いという訳でもない。あまりこういう言い方は好きではないが、現実として「転載」は今やWebでは恒常化しつつある。「作る側」も、こういった現実を俯瞰して、自分の取るべき態度を明らかにしなければならない。そうであってさえ、それを踏み越えて来るものは確実にいるのだから尚更だ。これは自己弁護や擁護ではなく、老婆心として書いておく。「転載」を認めるにしろ認めないにしろ、分かりやすい部分に明確にそのことについて記しておくべきだ。それすらも無視する輩は「集める側」としても眉を顰める爪弾き者なのだ。目の前にぶら下がった「面白いもの」を求めるがあまり、「これからの面白いもの」を失うことになるのは「集める側」としても本意ではないのである。
「集める側」は開き直るのではなくてもっと素直に毅然とすべきだし、される側は場所の弁えと最低限の理論武装、あるいは自衛をすべき。結局「どっちつかず」の中途半端な姿勢で創作なり娯楽なりを目指すから、そういう者同士がかち合ったとき軋轢が生まれる
欲しいのは金か。名誉か。それとも。