悶々と過ごしていたら、すっかり明けております。以前までは、暦なんてどうだっていいものでした。朝が来て、陽が沈んで、そのどちらにも僕は属さず、陽が昇っては眠ってみたり、陽が沈んでは起きてみたりと徹底的に境界を失った生活を繰り返し、それによって年はもとより月は寒暖差、曜日は予定の移り変わりと認識はシフト、結果として「この二十四時間中」の「ある時間」に僕は何をしなければならない、というような、平日も休日も祝日も時節も何もかも一緒くたにした、現時点を基点とするごく短スパンのループが延々と続くのみの日々。カレンダーやスケジュールを見て何かを待ち望んだり、ため息をついたりする人の心持ちが理解し難いものになり、そんなものは来てしまえば一瞬で、過ぎ去ってしまえば忘れ、来るまでは来るかどうかすら分からないものではないか、と切り捨てて、僕が幼い頃に漠然と思い描いていた「何か人の役に立つ仕事、生きる機械ではない自由なもの」なんて希望に満ち溢れた生き様は、目の前の作業と仕事をこなす上では面倒なものでしかあらず、所詮は人間なんて寝て起きるを三百六十五回かけることの八十回かそこら繰り返したところで永久に消えてなくなるもので、それは今日という日を考えるとあまりにも短すぎる区切りであり、であるならばせめて、苦しまずに早めに切り上げるか何かすれば良いのではないか、そんな風に思い、日々を時間を瞬間を、どうせ同じなのだからさっさと過ぎよと呪詛のごとく呟きながら消費するだけでありました。
故に、新年が明けようと何らおめでたくなどなく、一月一日は十二月末日の次であり、一月一日の次には二日があって、その逆もまた連綿と連なり、わざわざそこに境界を求め、あたかも「新しいものが来る」と思い込みたがるような精神性は疑うべきものでしかなく、そしてはたと思いとどまって「それは変身願望や救済、審判を求める心に近いものではないか」と考えだし、立ち返って出生やらその他諸々の未だに忌むべき自らの暗部がフラッシュバックするのを自覚しながら、ああ、新年ってなんて素敵なんだろう、と反吐と一緒にぶちまけてしまうがために、むしろ祝うべきものというよりも、「また一年生存してしまった」と呪るべきものへと認識はすり替わり、不快なものを忌避する人間心理の流れで「どうでもいい」と結論付けていたのです。
だからこそなのでしょうか。人を人足らしめる意識同様、あらゆるものはフレームが必要だったのかもしれません。意識してそれを排除した僕は、かえってそれにより、より深みにはまってしまっていたのだろうと思います。一日の区切り、曜日の集合、週の繰り返し、月の移り変わり、一年の流れ、そして堤防。時のうつろいを、連綿としたものとして捉えると、人はその茫漠さにあてられてしまうのでしょう。適宜、ボーダーを設けて断続的なものとして扱わねば、大抵の場合、過去に横たわる足枷と、未来に圧し掛かる重圧に挟まれ身動きがとれなくなるのです。後ろから前に続く細い糸の、今まさに手繰り寄せたその手元しか見えなくなってしまうのです。


今の僕にはしるしがあります。細い糸に染み込み打たれたその点、しるしは、僕に再び区切りを与えてくれました。考えてみれば、与えられたものや決められたものではなく、初めて自分でつけた区切りかもしれません。それに照らし合わせて暦を見るようになりました。明日が待ち遠しくなりました。過去は圧縮され、現在は加速し、未来は、本当にひどく、引き伸ばされました。
だから、漸く言えるのだと思います。忌中の方にはごめんなさい。新年明けましておめでとう御座います。本年から、どうぞよろしく。気が早いですが来年も、その次も、そのまた先まで。