Re:Opさん。
生きていることの自覚はありました。それ故に自滅・消滅・破滅願望を抱えこむ羽目になったのだろうと思います。生きているのは分かっているから、「生きたくない」。生きてるように振舞いたくない。死んでいるように生きたい。
それが今はあっさり裏返ってしまったのです。生きているということを、認められるようになりました。今までは知っていても認めていなかったのです。認めたくなかった、といった方が適切でしょうか。そう思い込めば、少なくとも自分のうちではそれが事実になります。自分を上手く騙せる人だけが幸せになれる、何の言葉だったでしょうか。何事にしても、それを信じるものにとって、それはとても重要な意味をもつものです。例えそれが嘘だろうと、虚構だろうと。


さて消えやがった奴らでありますが、一体どうしてどこへ行ったのかしらんと考えてみても、まるで心当たりがありません。「代返」についてはまるで心当たりもないので恐らく違うと思われます。本当の自分、中核に座しているべき自分、そんなものは、幻想です。あらゆる人格、表情、姿は並列であり、言ってしまえば人は高度な情報処理能力を有した複合体なのだと思うのです。複合体だから高度足りえるのか、あるいは高度であるが故に複合体に「見える」のかは判然としませんが、僕も俺も私も確実に自分であり、そしてどれが上や下というのも関係なく、ただその性質や方向の違いで便宜的に呼び分けていただけだったのです。その「三つ」を俯瞰しているような視点もあるにはあるのですが、これには能動的な部分がないので多分器質的なものでしょう。この辺りを見るに、やはり得た情報を処理する過程での揺らぎが人格のような形で表層に現れて見えるのではないか、とも考えるのですが。


またしちめんどくさい分かり辛い話になってきました。ともかく、何故そのような「使い分け」のような事態が起きるのか。以前にも書きましたが、人は理性を持ってはいますが、多くの場合理性的とはいえません。好み、感情、その場の気分、そういったもので人は理性を行使します。さらに見つめてみると、その好み、感情、その場の気分にはある程度の方向性やらパターンやらがあるのが見えてきます。それが私であり俺であり僕でした。「感じ方の違い」を擬人化したようなものと考えてもらえば分かりやすいかもしれません。感じ方が違うが為に、論理や結論にも誤差が生じ、まるで別個の人格のようにも思われます――というか実際、消える直前はかなり分裂していたのであながち「思われる」では済まなかったような気がします――が、その実は複合体としての「自分」を構成する一部分でしかなく、「代理」となるのは不可能だと思われます。完全に分裂していれば、また話は変わるのでしょうが。


そんな具合に整理出来てきたので、では現状はどうなのか、と見直してみると、つまり感じ取るものらが消えた、あるいは機能していない、という事態が考えられます。感じ取るものらが消えた、となると大分困るというか、ヒトらしさが消えてしまうと思われるので、どうやら消滅した訳ではなさそうです。ならば機能していないということになるのでしょうが、心当たりとなるとそれはもう一つしか思い当たりません。およそあらゆる全ての感性を沈黙せしめるほどの激情。思考の帯域を食われすぎているんでしょうねきっと。




ところで、その僕に重ね合わせていらっしゃる心情変化について、詳しく訊きましょうか。