否定する材料には事欠かないし、そもそもそんな事を考慮に入れる必要性すらなく、何よりもそんな疑念ひとつ投げた所で傷一つつかない「鏡」であるのに、そんなことを「考えてしまう」、それそのものに愕然として、「鏡」を見られなくなってしまっていた。
なにしろ最近は酷い。人格の使い分け過ぎで分裂気味になったと思ったら、今度はあいつらまとめて何処かに消えうせやがったのである。長らく付き合った奴から、最近出てきた奴まで根こそぎ居なくなってくれたお陰で、何を考えるにも、何を判断するにも基準が曖昧どころか存在しやがらないので、どうにかまた設定しなおさなくてはならず、やたらと考えるのが長くなったり悩むようになってしまった。もしかすると、大きく価値観が変化したというのもあるかもしれない。ひとりは楽だったけれど死んでいるのと変わらなかった。ひとりではなくなって、悩むことは増えたけれど、生きているのだと自分で認められる。
存在が大切。自らの存在が罪深いものだと信じていたものにとって、それはとても得難い言葉。
存在が大切。そのまま言うのは逆にきざったらしいので、言葉をかえて伝え続けていたこと。
何だ、結局おんなじで、そうして僕は、彼女から離れられない。