全く嫌な奴だと自覚する。いや、知っている。知っていた。
何だろう、俺には精神的な疑似餌のようなものでもついているのだろうか。こっちへ来るのは構わない。つっつきたくなるのも、そりゃ変な生き物だろうからそうなのだろう。僕は君ではないから分からない。だけれど、そこに埋めてあるものに気をつけてと、看板を立てても、バリケードを張り巡らせても、必ず何らかの手段で突破して自ら踏む上に悲しがる人が出てくる。
むしろ嫌って欲しいのかと訝ることがある。実は僕のことが内心嫌いで、それゆえに僕の思うよりも高度な手段で僕に対して嫌がらせをしているのではないか、とも。
僕は誰も嫌いになんてなりたくなかった。誰も好きになるつもりもなかった。そういう生き物としての生を歩みたくなかった。心無い、機械の部品か何かとして生まれたかった。いいや。生まれたくなど、なかった。


最初から僕がそこに存在しさえしなければ、誰も不幸にならないし、誰の迷惑にもならない。仮定ではそうだ。でも僕はすでに存在してしまっている。僕をとりまく関係性の檻。そこに閉じ込められて、指一本動かしただけでその結果が僕を苛む。だから僕は看板を立てた。壁を作った。踏まれてはいけない地雷も自分で埋めたものなのだろう。全ては醜い僕を守る為だ。僕が僕を守るための装置だ。


だからこそ、何で僕は許容され受容され認められ愛されるのか理解できない。僕の性質からすれば、その逆の方が圧倒的に多くていい筈だし、むしろそうであると考える方が自然ではないか。僕は許されるべき人間ではない。認められるべき人間ではない。愛されるべき人間ではない。


しかしそれらの醜い部分が「人間であるが故」に、全く同時に「人間」であるが故の理由も生まれる。これは酷い矛盾で、とてもややこしくて、人は本当に面倒な生き物で、恐らく僕はとかく面倒に出来上がってしまったのだろう。捨てたいと嘆いていたのに、今はその捨てたかったもので生き延びている。これからも生き延びるのだろう。


いいや。生きたい。