自分の価値を決めるものは何であろうと考えることがある。ぱっと思いつくのは、物質的豊かさによる相対的価値と、精神的豊かさによる絶対的価値、そしてそれらを認める自己あるいは他者の視点。
前者は単純にいえば金持ちかどうかだとか、容姿に優れてるだとかそういうことだ。そこに自己の主観による許容や認定、あるいは他者によるそれらが行われて自分の価値は二通りの、即ち自己と他者の判断が下される。後者も概ね同様のプロセスを経るようには思うのだが、物質的なものを省いた真に精神的なるものを見つめた時、そこにあるのは相対化された価値ではなく、絶対的な価値を持っているということだ。といっても、「比較対象されない」という意味合いであって、それが永久に存続し続け変質しないものであるという意味ではない。人は比べる以外の価値の見出し方を備えている。


何故そんな話をするかというと、己の価値の見出し方をずっと理解出来なかったからなのだ。いや、正しくいうなら今も分からない……いや、認められない。理解できていない訳ではないとは思うのだが、いかんせん見出せたためしがないのでそれが正しいのかどうか分からない。というのもそれが「自分に自信を持つ」という論理の外で行われるプロセスであるからで、そんなもん見つけられるまで分かるかボケ、という他ないのだがそれだと話が進まない。
ともかく自発的な、自らの許容、認定を何らかの障害あるいは理由により行えない者は、それを他者に委ねるしか自己認定の手段がない。恐らくこの辺のことは小児心理学のお偉いさんにでも聞けば色々と興味深い話からどうでもいい話まで聞けるのだろうがそんな事を知った所でどうなるわけでもなし。ともかく「出来ないことは出来ない」のだからそれ前提で話をするしかない。
で、他者に価値判断を仰ぐ、ここまではいいのだが、他者は所詮他者であり、そこでその判断を正しいのかどうか自問するプロセスが必要になる。それはそうだ。「お前は出来る子だね」を正直に受け入れ、自分は出来る子だと思ってそのまま突っ走れる人間はそうそう居ない。むしろそんな驕りが人を堕落させる要因になることは簡単に想像がつく。つまり「その評価の正当性」と、「その正当性の裏づけ」、くわえてある程度の「評価者への信頼」、これらの要件が揃って初めて他者の自分に対する評価を受け入れることが出来る。どれかが欠けていれば信じられないし、どれかを誤認すれば誤った価値を自分のものだとしてしまう。こんなことを考えているから出来ないんじゃないのって?全くその通りだと僕も思う。


しかし「出来ないことは出来ない」のだから仕方ない。今日はこればっかりだ。だけれど、出来ないはずなのに、どうやら出来たらしい。理屈ではない所であらゆる判断が下されることもある。とても僕の否定したかった生き方ではあるのだけれど、それに救われたと思っているのは滑稽な話だ。生まれてきたことを喜べる段階にはまだ至っていないけれども、生きていて良かったと思えているあたり、ここでも僕の嫌いな「人間らしさ」が存分に発揮されてしまっている訳で、ならば多少ヒトであることに意地の一つでも持ってやればいいのではなかろうか。「人間であることに耐えられなかった化け物」という文脈を否定してしまっても良いのではなかろうか……そう思う化け物がいても、いいのであろうか。
いいんだよ、といわれることに、これほどまでの意味がある。僕はまだまだ学ばねばならない。まだ生きねばならない。らしい。