Re:opさん
最近読んでいる本にこんな一節がありました。

ネアンデルタール人クロマニョン人の違いは何か分かる? 両方とも狩猟に頼っていたし、道具も使っていた。まあ、クロマニョン人は農業をやってたっていう人もいるけど。たださ、何万年かは、両者はともに地球にいたんだ。違う動物なのに、共存していた。ただ、ある一点、決定的な違いがあった」
「何だよ」
春は手の平を私のほうへ向けて、胸を張る。「クロマニョン人は芸術を愛したんだよ、兄貴」

ネアンデルタール人クロマニョン人とは別の生物で、同じ時代に生きていたが、ネアンデルタール人は滅んでしまった。クロマニョン人に負けて。そういう文脈から語られるこの一節を読んだだけでやられてしまったのですが、ともかくそれは置いておいて、文化や芸術、創作活動なくしてヒトはヒト足りえるのだろうか、と最近よく考えます。ただ生きるだけであればそれらは必要ない。機械的に毎日を消化消費し蓋をして忘却のかなたに流してしまえばそれでいい。しかしヒトは文化を、芸術を、創作を望み創り出し互いに干渉し合っている。つまりそれらは必要なことであって、ヒトがヒトたる要件であり、それらを抑制あるいは奪われた時ヒトはヒト足り得ないのではないか。今の社会は利益やその他もろもろの理由でそれを行おうとしているのではないか。ここを書いたのが二月も前になりますか。
ともかく、文章を書くという点に限って言えば、どんな状況であろうと「書かざるをえない」のです。僕の場合は少しその「排泄」可能な幅が広まってきましたが、自分の内から湧き出す言葉、イメージ、音、そういうものを「見つけてしまった」人は殆どこういった病的な症状に陥るものだと思います。むしろあらゆることが容認されてしまうカオスの中の方こそ、より活性化する……というよりも、自分の知りうる限りのワイヤードのコミュニティを俯瞰してみても、「ここ」こそがその想定されている状態、あるいはそれに近いのではないか、と。
考えてみれば、地下から突然地上に飛び出してメインストリームにすげ代わり続いていく、というような進み方をするこういった文化だとかというものは、土壌としてのカオスが必要不可欠なのではないでしょうか。他者の創作物や情報に触発されるというのは、僕にもよくあることです。時には何もない部屋に規則正しい生活を強いられ何の情報も与えられない、そんな状況でも何かを創り出してしまいそうな、本当に同じ人間かと首を傾げたくなる人もありますが、世に出ている創作者の方々の大半は、刺激を受け、自らの中の体系に基づき、一定以上のレベルで何かを創り出せる人であると思います。それを培う養分を含んだ肥沃で広大な土壌が見つかったのに、ヒトはまだそこを開墾する術を知らない、ともするとそこを有効活用することが出来ないのかもしれない……そんな印象を持っています。
とは言っても、今日もどこかで瞠目してしまうような何かがここのどこかでは生まれているのでしょう。答えが出るのはもう少し先になるのだと思います。それまでにこの土壌が「汚染」されなければ、の話ではありますが。