falling

どこからか、鈴の音の残響を引き伸ばしたような不安定な音階が、継続して聞こえてくる。あまりの無音に耳を聾すような、あるいは電子機器の出す狂った高周波のような、ひどく眩暈のする音。
眼を見開くと、そこには黒があった。黒の外周はけばだった赤茶色で、視界の端までうめつくされている。やがて赤茶の淵が視界から失せ、黒がそのほとんどを埋めた時、私は気付く。
ああ、おちて――




がた、と大げさな音をたて、簡素なパイプ組みの椅子をけとばし、組み立て式のテーブルから飛び跳ねるように起きた私に、周囲の人の視線が痛く刺さった。どうやらいつの間にか寝てしまっていたらしい。
枕代わりになっていた分厚い参考書を鞄にしまい、うなだれたまま図書館を出る。傾いた陽と、瞳孔を裂いてとどく初冬の高く透明な空。いつも以上に顔をふせ、まだ震えの残る足で歩く。
ふと夢のことを考える。鼓膜を無数の針で貫かれるような音、赤茶色の禍々しい淵、そして、その中心……黒を、黒へと、おちてゆく夢。
最近この夢ばかりみる。最初はベッドの中だけだった。それから、電車内、講堂……ともかくいたるところで、すこしでもまどろんでみせると、すぐさまあの夢がやってくるようになった。今では歩いている時ですらあの夢はあらわれ、私を睡眠から現実へとおとす。覚めた瞬間の、何ともいたたまれないプレゼントまで残して。
レンガばりのキャンバス、そこかしこに紅葉した落ち葉の散らばる道を、ふらりふらりと歩く。綺麗に朱に染まっていたはずの葉は、多くの人に踏まれたからか泥にまみれ、雨風に攪拌され、ささくれだった赤茶色に変色し、その葉に刻まれた虫食いと腐食の黒でさえ――まるであの淵のように見える。そう、まるであの淵の様に――




歩道のど真ん中で、汗を滲ませ息を荒げて硬直する私を、周囲の奇異の眼がみている。まただ。私は一体どうしてしまったのだろう? 息を整え、頭を少し振って気つけをしてみる。手の震えが止まらない。どうして私がこんな目にあわなければいけないのか。何か私が間違ったのだろうか。このごろは満足に眠ることもできないのを思い出す。そういえば、いつごろからこの夢を見るようになったのだろう。最初は、ベッドの、中だった。震えが止まる。仕方がなかった。また手が震えだす。踏みだした足が空を切り、あの黒へとおちるイメージがぬぐってもぬぐっても頭から消えない。手の震えが全身にまわる。視界いっぱいの赤茶色ときどき黒。額から滑りおちた汗が顎を伝い、赤茶色におちて黒になる。頭を上げることができない。眼を閉じる。瞼に刺さる陽の光。赤茶色、黒。


闇。




はらはらと葉の舞う森を歩いている。足をふみだすごとにくるぶしまで落葉と腐葉土に埋まるが、その足に迷いはない。平坦な森。鳥の声一つ聞こえぬ静寂の森。葉の擦れ、おちる音すら喪失した森。足音までもかき消す膨大の無音。
やがて古い見捨てられた井戸へと辿り着く。その赤茶色の淵から、黒を覗き込む。闇。頭上の痩せ細った枝から一枚、音もなく葉がおちる。その間隙から陽がおちる。闇に一筋の光が射し、黒の中に赤茶色。黒の中の赤茶色。赤茶色の中の黒。赤茶色と黒の淵からおちた私の赤茶色。私におとされた赤茶色。あの時は音があった。音もなく葉がまたおちる。黒の底までとどく秋の日差し。照らしだされる私を見つめる黒の中の赤茶色の中の二つの黒。おちる私。すぐ隣には私におとされた赤茶色。もう音はしない。だって息のねは止まってる。震える手を伸ばして触れる。私におとされた、私の、赤ちゃん。