そして余談。先の話の「文章の伝統と常識」、これは先頭に「Webの」をつけなくとも案外当てはまってしまうのかもしれないと思う。id:insane:20051020の話にも書いたように、これだけの人がこれだけの規模で意見を「文章で交わす」、Webという場は確かに今までは存在しなかった。学問の人や政治なんかをする人にとってはその限りではないのだろうけど、老若男女猫も杓子も文章で意思疎通を図る、というのは、やっぱり人類初と言っても過言じゃないと思うのだ。
しかし、やっぱり言葉だけじゃ上手くいかない。その言葉を吐き出した人がどういう思考や人格をしているのか、そこも加味しないと、言葉なんてのは玉虫色に変わるものだから、ほとほと困り果ててしまう。そこで無理やりにハンドルネームなんて自分を表す記号を用意して、言葉の意味一つ一つから意味する所をすり合わせる作業なんて事を、約十年前からじりじりとやってきたんじゃなかろうか。
最近じゃ随分と楽になったものだと思う。するすると話が進む、というか。漸く伝統だとか常識といったものが形作られて来たのかもしれないし、全く別の形で文章をやり取りする方法を感覚的に見つけ出したのかもしれない。あれ、そもそも最近議論らしい議論を見かけたことがあっただろうか。あったとしても何だかよく分からない新しい定義の解釈論だとかそんなのばっかりなような。話がそれた。
淘汰。Webに淘汰はあるかないか、と言われれば、かなり厳しい形であるのではないかなあ。簡潔に言ってしまえば「面白いか面白くないか」という一点において、取り沙汰されるか完璧に無視されるかのどちらかが決定されてしまう。馬鹿なことをいえばいかに今まで面白いことをしていたとしても糾弾されこき下ろされてあっという間に後者の無視されるべきサイト群入りしてしまったり。なまじこの世界の内包する情報量が多いばかりに、「他所に幾らでもある」状況が多発して、閲覧者側の評価と決定も凄まじい速さと量で行われてしまう。細々としたアクセスを糧にWebの端で言葉を綴っていても、それが全て自分と業者だけだった、なんて事態もあり得る。これは大変に酷な淘汰ではないだろうか。
とか書いていると我が身をつまされるような思いが。批判されたりウォッチされることよりも無関心の域へと放り込まれることこそ最も恐るべき事態だよなあ。