オンラインで死ぬ日。
http://box.elsia.net/~blog/archive/2004/11/24/#id1101303447

繋がりと仮面、と言う言葉を連想する。
家族や友人、知り合いと言った現実の物質を伴う、リアルな繋がりと、かたや電子情報のみの、仮想空間での繋がり。大局的に分けると二つにはなるが、しかしその二つの中でも、僕らはいくつもの仮面を使い分ける。
例えば家族と友人、知り合いや、会社の上司、同僚、後輩、そういう人たちに、全く同じ接し方をするだろうか。「社会の常識」的に、僕らは場面場面に応じた外面を形作り、それを何の違和感もない様に着こなす。これを心理学用語で「ペルソナ」と言うらしい。
つまり、それを意識していようと、そうでなかろうと、僕らは多数の人に対して全く異なる姿を見せている。現実、仮想空間を問わず、だ。
それは儀礼的無関心であったり、偽善であったり、演技であったりする訳で、先の電車の例で言えば、儀礼的無関心を装いつつ、どうやって長い余暇を過ごすか、と言う自問の答えが、たまたま数々の情報を得たり発信出来る携帯電話だった、と言うだけだ。それが新聞であろうと、書籍であろうと、結局のところは変わらない。
……とか言うとmojio氏の言わんとするところにいつまで経っても触れられないので軌道修正。脱線癖が直らない。
さて、何故僕ら情報化社会世代*1は、現実の人間関係よりも、仮想空間の人間関係を重んじる、もしくはその様に見えるのか。
この理由は至極簡単で、先に挙げたペルソナの生む確執とでも言うべきものが、根幹にある。
人は状況に応じて仮面を付け替える生き物であるが、それをやり過ぎたり、そぐわない状況で付け替えねばならない時、強いストレスを感じる。例えば僕は友人が居る時に親が顔を見せると、強い息苦しさを感じたりするが、これは恐らく友人の前で付ける仮面と、親の前で付ける仮面の差が露呈するのを恐れることに起因するストレスだろう。
僕らは多くの情報端末を手に入れ、多くの人や、物事と触れ合う機会を手に入れた。それは過去の狭い繋がりであった「地域」や「家族」などと言った単位集団よりも遥かに大きく、複雑だ。そしてそれに合わせて僕らは多くの仮面を、心のクローゼットにしまい込んでしまった。それがもたらすのは、張り付いた仮面を取り替える時の痛み、半分半分で異なる仮面を被らねばならない葛藤である。そしてその状況に疲れたとき、比較的仮面を付け替える負担の少ない、「顔の見えない」仮想空間に、救いを求める。
しかし、救いの面もあるように思う。自由に仮面を付け替えられるこの世界では、演じる楽しみも出てくる。だからこそネカマなんてものが存在するし、現実では至って真面目な人間が、掲示板では釣り師や煽りをやっていたりするのだ。
その結果、mojio氏の危惧するように、自分の死を実況した祭りなんてものが、将来的に起こり得るかもしれない。しかし、それは何ら異常な事ではなく、多くの人が病床で家族に看取られながら死に行くように、同じネットワークの子供達である「家族」に看取られ逝く幸せが、そこにはあるのではないだろうか。
今だってそうである。Webサイト管理者の訃報に、心から悼む人が居る。広大で、複雑で、儚い繋がりであるかもしれない。しかし、不特定多数の人々に悼まれつつ逝く事は、果たして不幸であるだろうか。
数十年後には、きっとそれが普通になり、何の疑問もなくネット上の葬式を挙げている様な光景が、思われてならない。

*1:便宜上こう呼んでみる