思いつきで考えながら書き綴る。


何故転載や権利者表記の有無、また自分のスペースでの閲覧「でない」ものに拒否反応を起こすのか。創作物というのは投擲するものだと、個人的には思っている。自分の内から出来たものを、閲覧者に対して投げつける。手を離れた時点で創作物は僕の作った僕のものでない何かに変容する。閲覧者が受け取るも、避けるも、投げ返してくるも、どこかまた別の所に投げてしまうのも、それは彼らの自由だ。僕は関知しない。正確にいうなれば、そうしようとすることは徒労なのだ。それこそ個室を貸しきり、入場料でも取って手に触れさせず見物させたところで、それが素晴らしいものならば、必ず誰かがそれをどうにかして外に持ち出す。映画館で見せられたことはないだろうか。ビデオ録画は犯罪です。自分がやっている訳ではないのに、居心地の悪い思いをすることがある。pixivのような半開放SNSからtumblrへ画像を転載するな、という悶着も見たことがある。ワイヤードでもリアルでもそれは変わらない。
恐らく、対価を取っているものであるなら納得できる人は多いのだろう。人間社会に組み込まれた段階で、そういった「仕組み」、「決まりごと」、「作法」、「形式」といったものは叩き込まれている。疑問を持たず「いけないこと」だと飲み込まざるを得ない。おひねりだったものがいつしか対価になってしまったように、一度出来上がってしまった仕組みは、そう簡単にひっくり返りはしないからだ。誰かの才能で金が回るなら、才能のないいくつかの者は、その周囲でこぼれて来る甘い汁をすすり始める。いつしか才能のないものが、才能のある者をつかんで離さなくなる。
ワイヤードでは、そういう概念が希薄だった。誰しもが表現者になり得たし、誰しもが閲覧者だった。閉じた系の集合がワイヤードだった。それは原理である公開と共有には程遠いものであったけれど、その系の中では原理はしっかりと働いていた。やがてその閉じた系と系が結びつき始める。きざはしを誰が上り始めたかは分からないが、ともかく広大な閉じた系の集合のなかから、作為的に、あるいは神がかった無作為でもって経路を開く者が出てきた。やがて経路を開く者は、貪欲な好奇心と面白さを求める飢えに苛まれていた者たちの支持を集める。それは匿名の人々かもしれないし、高度な検索ロボットかもしれないし、一人称の人だったかもしれない。ともかく経路が開き、人は流動的に動き始め、閉じた系同士は開かれあい、真に公開と共有の行われる時代が来た。
それは同時に、広漠な情報砂漠を生み出す。あるものはオアシスになり、あるものはキャラバンになった。あるものは迷い疲れ果て、あるものは開拓を夢見て旅立った。そうしてリアルの延長線上に存在する、それとは全く異なる概念と原理で蠢くワイヤードは成熟した。


そこでは関心を集めることが全てだった。対価という概念が希薄であるが故に、権威、名誉、人望、そういった形のないもののベクトルが求められたし、それらが一目で分かるものも同じように求められた。一方で、そんなものを一顧だにしない者も出てくる。ワイヤードに参加すること、表現することが全であり、その時点で既に先の者が渇望する精神的充足を得られる者。一つになった共有と公開のワイヤードは、二つの枝葉を伸ばし始める。
後者は停滞も活性化もしない。淡々と作り、公開し、それに満足する。前者はそうではない。より良き、より多き、より高きを望む。現在のワイヤードを主導しているのは間違いなく前者であり、それは恐らく機能的な発展という意味では正しかった。問題なのは、広大な砂漠に存在する一個のヒトには、関知できる範囲が狭すぎることだ。知りうる範囲が狭いということは、つまり開かれ共有されているにも関わらず、ヒトレベルでの系として閉じた空間でしか砂漠、ワイヤードを知ることが出来ないということだ。これは認知の不一致をも意味する。
偉大なる機能的発展の一方で、それを使うヒトの認識、精神は発展したかといえば、どうやらそうでもないようだ。そもそもどういう場であるか、という認識すら、ヒトというフレームを通してしまえば千変万化し得る。そういった多様性もワイヤードに寄与するものではあるが、しかしことヒト個人間となると話は別だ。
大いなる誤謬として、このワイヤードがひとつながりの全く同質で同様な空間の連なりである、というものがある。しかし現実として、ワイヤードは一つの大きな集合空間でありながら、その内部には細かいコミュニティやカテゴリ、あるいはタグと呼ばれるものに区別され、識別される。動力がヒトであるのだから仕方ない。が、往々にしてヒトは自分、あるいは別のコミュニティでの流儀や作法を、いかなるコミュニティでも実行して顰蹙をかうことがある。原因は見識の広さ故かもしれないし、認識の不足であるかもしれないが、それらの正誤は置いておいて、ともかくそういった事態は現実に起こり得るし起こっている。
これの一端が先日書いたこと*1なのであろう。こういった事態はリアル、ワイヤード問わず起こり、経済活動の一環にすら波及しているのだから、何かを正すやら規制してどうなるものでもない。そんなことで根絶せしめる事態であるなら、世から海賊版だのなんだのは一切消えうせている。だからといって許容しろ、笑って済ませというのではなく、先の記事にも書いたが、その心構え、覚悟は必要なのではないか、ということだ。
万引きは犯罪です。映画は犯罪です。改めて文にしなくとも、そういったことはリアルで真っ当に生活している人間であれば認識として持っている。tumblrの件に関していえば、ほとんどのtumblrユーザーはそういった認識の「上で」tumblrを使っているのではなかろうか。故意犯、確信犯、言葉はなんでもいいが、ともかく分かっててやっている。何故かといえば、それは機能的発展がもたらした流儀の一つとして、「まとめるヒト」のパーソナリティを軸にした「ワイヤードを主導する前者」であったり、あるいは単純に作品、作者に対する愛情表現であるともいえる。作者が不愉快に感じることを何が愛か、と思われるかもしれないが、これがフレームの差であり、恒常的に属しているコミュニティの差であったりするのだ。
これと似たような話は数年来続いている。無断リンク、無断引用、その他もろもろ認識や不勉強、フレームの差が引き金となった問題は数多い。大抵の問題は「法律で認められている」というリアルを軸にした強弁が通り現在に至るが、しかし今度の問題は法律的にもいまだ迷走している。現行法でいうなれば親告罪という側面もあってグレーであるが、もし非親告罪化が施行されれば完全にアウトだ。ところが一方ではその法律が創作を滅ぼすという意見も存在する。ここでも機能的発展にヒトが追いついていない。その先端に近いワイヤードで、ユーザーレベルでこれまで表層化が遅れたのも興味深い所ではあるが、それはまた機会があったら触れることにする。


ごく個人的には、転載ごとき放って置けばいいのではなかろうかと考える。というのも、このただっぴろいワイヤードで、いったいどれ程真に心に響く作品があるだろうか。それに出会える確率はどれほどだろうか。もっと簡単にいえば、「等しく僻地」であるワイヤードにおいて、あなたの作品をあなたの関知し管理する場で知り得る機会はどれほどだろうか。ヒトの命は有限で、その中でも娯楽や趣味に使える時間は限られている。転載されることは確かに気分を害すものかもしれないが、それによってあなたを知り得るヒトは加速度的に増加するのではないか。反対意見として「権利者表記や出典が明らかにされていない」というものもあったが、世には詳細希望スレッドなるものや、画像自体へのメタ情報埋め込み、あるいは画像内の権利者表記といった手法が存在する。あなたの作品を通して「もっと」と感じたヒトが確実にあなたの元へと訪れられる方法がある。あまりに広まりすぎ、それによる弊害もあるにはあるのかもしれないが、それはワイヤードがあなたにとって狭すぎるか、あるいは考え不足というものだ。
ちなみになりすましやら偽装やらは最早語るまでもなく論外なので捨て置く。どうせそんな輩にたいしたことは出来やしない。

*1:id:insane:20080114#1200288817