自分語りの陥穽。
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最下部から辿れる補遺もあわせて。
うん、もしかすると僕がどんな風に書くか予想済みであったり、よもや居ないとは思うのだけどその「予想」通りの論旨でこの記事に対して何らかの反応をしている人がいたりしたら、申し訳ない。結論から先にいえば、「自分語り」を奪われたら人は何の表現も出来やしない。そうではないだろうか。だけれど上っ面だけ撫ぜると千野帽子さんは「自分語り」を批判的に書いておられるように読める*1。つまるところ、千野帽子さんの「自分語り」で「自分語り」を批判しているという階層構造と、その「見做し」。ここにはまる人は千野帽子さんの云わんとしていることを決して理解出来ない。


これは最近になってようやく認められてきたことなのだけれど、ヒトの論理というのはどう頑張っても限度がある。論理は言語に根ざすものであるし、言語は思考、思考は感情、と辿ればどんどん深くへ行く訳だけども、それら全てを「不完全である」と考えてみた場合。いつものように長々と順を追って説明してもよいのだけど、最近「他人に分かりやすいようにつとめて書く」と「他人にとって分かりにくくなる」事態がよく起きるようなのですっ飛ばす。つまるところヒトの論理レベルでは、「矛盾を内包した証明でなければ証明しえない事態が起こりうるのではないか」という疑念。
これはよく自分も直面する事態であって、「お前それ他人のこといえるのか」という自己疑念に苛まれながらもどうしても言う他なく、言ってみたら案の定オウム返し的弁法で話の腰を折られてげんなり、というアレだ。「話の要点はそこじゃねぇのに」とハンカチーフの代わりに相手に噛み付くのが若かりし頃の僕であったけれども、最近の僕は大人なのでそんなことはしない。相手が「そのつもり」ならこちらもそれに乗る道理はないのだ。無視、あるいは話の腰を折りついでに相手の出鼻も折っておいてやればよい。話がずれてる閑話休題


表題にも語弊があるといえばあるというか、こうする他ないのも仕方ないとはとてもよく分かるのだけれども、何だろう、自分でも置くことのある地雷のような気がするのだ。誤用の方の「確信犯」的な、「そこを踏む奴ら出るんだろうね」というハイライトの消えた目というか。それはともかく、ヒトがヒトである以上「自分語り」からは逃れられない。「自分語り」から脱却するには完全なる客観、神の視点とでもいうべき何かにならざるを得ず、そしてそれは今の所ヒトには成しえていない。事実の羅列であっても事実を抜き出した主観、多数の事象から関連性のある事柄のフレームを区切った自我が存在する。それをクリップした「僕を見て」という「自分語り」がそこにある。


ひるがえって、ならば自分語りの何が問題なのか。ここまで地雷にはまることなく来れれば、千野帽子さんの話は見えてくる。長々といつもの事ながら話をぶっているが、千野帽子さんの論旨を単純に――もちろん「僕」の「自分語り」で――抜き出すならば「自分語りのやり方について」なのだ。「歪んだ認識」、「過剰な自己愛」、「感情の暴走」、そういった「自分語り」は早い話が「独りよがり」でしかない。あるいは「自分語り」の定義はこの「独りよがり」のそれという限定的なものなのかもしれないが、それなら「自分大好き語り」とか「自分勝手語り」とかいわれそうなものなのでもっと広い意味もあるのだろう。……あるよね。あったらいいな。じゃないと僕がここまで書いた文章の八割くらい意味ないんだけど。


一見すると僕には「自分語り」と「独りよがり」は同じものに見える。それは虚無主義的な視点だからかも知れないし、もしかするとただの現実主義かもしれないけれども、「自分語り」のうちのさらに「独りよがり」、僕と同じ視点を持ってる方はこの文脈で納得してほしい。
納得してくれたと仮定して、では「独りよがり」だと何が悪いのだ、という話になる。そいつは簡単な話で、単純極まりないたった一つの理由によって肯定される。
「面白くない」のだ。
ヒトが何を求めて話を、文章を、絵画を、音を、それらひっくるめた芸術やら何やらを愛すかといえば「面白い」からだ。「趣深い」と言い換えてもいい。ヒトは「面白さ」に耽美なのだ。また曖昧で流動的な基準ではあるが、仕方がない、それが全てといって何の語弊があろう。例えば「自分大好き語り」でも「誰か」や「何か」を意識したものであれば読めるし面白いことが多い。それはその「誰か」や「何か」が隔絶されている筈のヒトとヒトの接点になり、「面白さ」の熱を効率よく伝えてくれるから。では面白くない「自分語り」、「独りよがり」の「自分語り」は何が足りない、あるいは余計なのか。
足りないとするなら「バランス感覚」であり、余計とするなら「功名心」のようなものだろうか。楽しさを伝えるなら、まず本人が楽しんでいなければならない。「楽しみの為」に「楽しいふり」をしているのをヒトは敏感に見抜く。「話していることそれそのもの」ではなく「それを話している自分を見た他人」を見据えているのを知っている。

いったいどうして、みんなこれほど、自分の肥大自我や不機嫌を正当化するモノガタリを作ることに専念することが当り前になっちゃったんでしょう。いったいどうして──自戒もこめて書きますが──、本の話しても音楽の話しても映画の話しても、紹介にも批評にもならず、最終的には「それが好き(嫌い)な自分」の話にしかならないんでしょう。


それは単に、自分が表現するということを「面白い」と感じるから。
ヒトは気を抜くと楽な方へ流れてしまう。自分のことならば、例えよく見えていなくても、知った気になって語ったところで誰も文句はつけない。つまり、語りやすい。そして自分を語ることそれ自体も「面白い」と感じやすい。その「面白さ」を共有することに気を回すことを忘れるほどに。


温度差を感じる会話をしたことはないだろうか。ある出来事を自分はとても面白いと思っていたけれど、他人に話してみたらその人にとってはそうでもない。こちらばかり熱くて、相手は冷え切っている。この場合は大抵が温度差を考慮に入れてないことが原因で、あまり興味がなかったり、どうでもいい話題でも話術一つで面白くもつまらなくもなるということを考えていない所為だ。自分が「面白がる」だけでもいけない。それをいかに伝えるかを考えなければ「自分語り」の「独りよがり」でしかない。


そんな訳で、僕の「自分語り」でいくならば、「語る」内容は問題ではないと思うのだ。全てはその温度と、比熱、そして伝導効率。多くのヒトは理解でも共感でもなく、温度変化で物事を楽しむ。
そうしてぬるま湯に慣れた体はそこから出られなくなってしまうのだ。出てしまえば寒い。浸かっていてもぬるい。もっと熱い湯を探しあてても、慣れればまたぬるく感じてしまう。


喉が痛い。変な咳も出る。夏風邪を引くのはなんだったっけ。

*1:と思う人が多いと勝手に脳内客観が断定してるので分かってる方はその限りではない