眠くなると書きたくなるのはずいぶん昔からの習慣で、書いているうちに頭が起きてきて結局寝ない、というサイクルもやはり僕の生活においては恒常的な要素であったりする。
普通の人はどういう風に書いているのだろうか。知ったところでどうなる訳でもないし、それを実行するという訳でもないが、昔から「夜に書いた恋文は朝読み直せ」だとか死んでも出すなとか言われるものだ。脳の機能が低下して、人が深さだとか奥行きだとかと言った三次元的な空間を精神内にあると仮定した時の、原点により近い部分が出てくるから、なのかもしれない。眠気を感じると人は凶暴になるという話もある。凶暴性。理性とはかけ離れた感情。人間の根源。本能。ひるがえって、そんなものを切り捨てたいと書いているのがその本能自身であるとするなら、これはなんともこっけいな円環構造ではないか。
ああだこうだ言っても、僕は自分の文章が何だかんだで嫌いではないのだ。うん年前に書いたものを読んで言葉に出来ない全身を真綿で搾られるような感覚があるのは、正直なところ否定は出来ない。しかしだから蓋をして知らない振りをして忘れ去ってしまえば良いかといえばそうではない。むしろ今の自分に至る選択、その過程で失ったり投げ捨てたりこぼし落としたりしたもの、そういうものがとても懐かしく、同時に選択したことの覚悟を再認識出来る機会でもあるのだ。
あるいは未だに固執してしまっている、捨て去るべき、選択すべきこともまざまざと見せてよこす。再提起される煩悶の種は睡眠を吸い上げ芽を出すのだ。
そうして睡眠不足の昼夜は過ぎる。悪循環であろうか。しかし、人が直面すべきは理性ではなく本能なのではないだろうか。意地、見得、先入観、固定観念、それらの由来は辿れば本能に行き着く。理性だけで、論理だけで考えれば答えはもう目の前にぶら下げられているも同然の問題が、本能というレンズを通しただけで遥か遠方に遠ざかり、虚像を掴むのに必死になって手を差し伸べていると、いつしかそれが拳になってしまう。
では無感動無感情な思考機械になれれば、あるいは感情だとかの本能に属するものを「棚上げ」し切り離して考えれば良いのだろうか。少なくともそれを実践している――と思っている――僕からしてみれば、分裂している、だとか、調子が良い、だとか、二重規範だ、と言われる事もままある。自覚も、ままある。確かに僕は分裂しているのかもしれない。二重規範な姿勢をとっている覚えはないが、その分裂した別々の僕や私や俺の見え方がそう感じられる要因であるとするなら、それも理解できない訳ではない。
別段、喧嘩がしたい訳ではないのだ。ただ、どんな議論であれ、相手あるいは自分の論旨を笑い飛ばす、そんな諧謔味がある程度で、議論というものは丁度良い。むしろそういうユーモア、あるいは自分で自らの考えを否定してみせることこそ、せせこましいヒト一人の視点を超えた学び取るべき部分があるはずで、それに極端な拒否反応が出てしまううちは結局自分の領土から出られないだけなのだ。


何故書くか。何故眠くなる時に書きたくなるのか。これは締め切り間近まで仕事を溜め込んで自分を追い込むそれと似ているのかも知れない。結局理性は本能なしには存在し得ないのだ。ヒトの創発の全ては本能に因る。理性は本能の轍なしには際限なく広がる水のようなもので、人は本能を理性で管理しているのではなく本能で理性を管理しているのだ。ならば、本能、それが強く出る状態で何かを書き残したとして、それをその状態ではない時に読み返す、あるいは他者のそれを読む、ということは、つまるところどこぞのシスコンが喚いていた超人へと至る一歩なのではないか。


神は死んだ。人を審判し救うものは消えて失せた。だから私は私を救うため人を超える。
ではその到達点が超人ではなく、それがただの狂人だったとするなら。その違いを審判出来るものは、一体誰なのであろう。
神は死んだ。私も死にたい。