大体用意し始める時間まで暇なので、いや、暇というほど実際問題暇ではない筈なのだけどもうどうにでもなれ的諦観で暇ということにした先刻、ずっと放置していたアンテナなんぞに手を加えてみようかなあと思い立ったのだけど結局のところ面倒で投げたという今。


考えてみれば便利になったもんだ。WWWCに躍起になってURIを登録し、自分用のブックマークを人力HTML出力して置いておいたこともあった。アンテナはもちろん、今ではソーシャルブックマークやら、さらにそれをまとめてひっくるめてヘッドライン表示する、なんてサイトもごまんと出てきた。好みの情報、好まれそうな情報が統計学的アプローチで湯水のごとくあふれ出て来る。それらを追い回すだけで日が暮れる。ショッピングサイトでもそうだ。amazonのおすすめ商品に警鐘を鳴らしていた人が居たように思うが、口コミの整理整頓体系化。それの極致が今のWebなのであろうか。そこに果たしてもとの人の意思のようなものは残っているのだろうか。
とは言っても所詮選別しているのが機械であったり、統計を元にしている限り当たり外れは個人ニュースサイトのそれ同様存在し得るし実際にある。むしろ、その過程で排斥されてゆくものにこそ大当たりが潜んでいることも多い。消費者が情報を得る、買う段階において、何を参考にするかというと最終的に自分の理性あるいは勘に頼るか、そうでなくば信用する第三者のパーソナリティを基準にするしかないのだ。つまりその手の情報を消費者向けに整理した状態で出してくるというサービスは、どこまで行っても彼らの利益を得るための手段に他ならず、利益を目的としていない純粋な情報共有の敗残兵共には及びもつかないものでしかない。まだランダムに表示された方がカオスの恩恵のある分、性質が悪いと言い換えても良いかもしれない。


また話は変わるが、共時性シンクロニシティというものを最近強く感じることがある。例えば何の前情報もなしに、何となく手にとって買ってきた本全てがNDE、つまり臨死体験がテーマであったり、つい最近は同様に何の脈絡もなく選んできた本がやはり遺伝子や生命工学についてをテーマにしていたりして、おまけにそれらを続けて読んでいたりするので別の意味で面白みが深まる。別にタイトルや序文に共通点があった訳でもない。むしろてんで関係なさそうなところを選んできた筈なのにこれである。自分に妙な嗅覚でもあるのだろうかと訝りたくもなるが、そんな自覚はないしただの偶然であるとは思うにしても、こういうことがあるから本屋通いはやめられない。
あるいは別の観点からすると、そういう「周期」のようなものもあるのかもしれない。ある時期にはNDEが物書き間では伝播しテーマにされ、またある時期には遺伝子工学、ある時期には量子論……そういうことがないとは言い切れない。その時代時代での風潮や流行は確実にあるのだろうし、それらに影響されることもあり得る。


長いスパンで見れば、今書店の書架に並んでいる作家は、あと十年もすれば少なくとも半分は入れ替わって名前すら忘れられて行くのだろう。人の、時代の流れの中に杭を打ちつけて存在証明出来る人は少ない。しかしあのような共時性を感じると、その杭に触れた人々を感じられるような気がするのだ。誰が打ち付けたのかすら分からなくとも、それは確かにあって、そしてそれに触れた人がまた新たな杭を打つ。いつか忘れ去られてしまうこともあるかもしれない。朽ちて抜けた杭を誰かが拾ってせせら笑うこともあるだろう。それでも杭を打つことしか出来ない人もいれば、それを触るだけで幸せを感じるものもいるのだ。誰かが「そんなことは無意味だ」というなら、彼にとってはそれでいいのだろう。どんな時だって、一見無意味で、他に手段があり「そうしない」選択の方が妥当だとも思われるとき、人のたった一つの意思だけで決定され実行されたことにこそ価値は生まれるのではないだろうか。
つまり、なんでおれがはたらかなくちゃいけないんだよ。