ストレイテナーの、一番早くやるのに何故か「追加公演」なリキッドルームのチケット取れず項垂れる。
十時に起きてそのままぴあで買うつもりが、起きたのが夜の十時、つまり二十二時。慌てて開きっぱなしにしてたぴあのサイトを見るも、ただ表示されるは売り切れを示すバツ印。
これを逃したら、次はFUJI ROCKかNANO-MUGENか。どちらも多数のアーティストが参加する上に連日開催で、おまけに今年のFUJIは新潟ときてる。気合で行ってやりたいとは思ってるけれど、WIREサマーソニックも行ってみたい。低所得者の黄昏。


ところで、ノーミュージック・ノーライフって標語は大変素晴らしいものだ。娯楽は生きる上で重要な意味を持つけれど、とりわけ音楽の持つ娯楽性は、読書や絵画や映画みたいな視覚を用いる娯楽よりも、意識を奪われ過ぎないという優位性を持つように思う。つまり「ながら」作業がし易いというか、日常に溶け込み易い性質を持つように思うのだ。
例えば有線であり、例えばラジオであり、例えばBGMな訳である。ある程度の生活基準であれば、行く先々で僕たちは音楽漬けといえる。街角だってどこかのスピーカーや、店舗から音は漏れ出しているし、人によっては僕のように常時ヘッドホンで行動していれば、一日で睡眠時間の次に多いのが音楽を聴いている時間、なんて人はザラに居るだろう。特筆すべきは金曜のナックファイブである。小林克也は化物か。


そういう意味でも、iTunes+iPodの提案したライフスタイルは、いろいろな意味で革新的だったように思う。膨大なプレイリストのランダム再生という機能は、いわば「好きな音楽だけ流れるラジオ局」のようなものだ。last.fmのような未知との遭遇はないけれど、安定した楽しみをいつ何処でも聴くことが出来る、というのは、よく考えたものだと驚嘆させられる。今では猫も杓子もiPod、勤務中に白いコードや、専用のケースを身に付けてやってくる人もよく目に留まる。その煽りか、ヘッドホンもあれこれと新商品が出てきて、その品質がどうかは定かではないけれど、選択肢が増えるという意味ではいい事尽くめだ。


ところが、今日は面白いものを見かけた。フラッシュメディアやら大容量記憶装置デバイス主流の今になって、なにやら取っ手付きのポータブルCDプレーヤーらしきものに、BOSEの例のノイズキャンセリング付きヘッドホンを装着して来店された、大学生と思しき兄貴。あの人はイカしてた。右も左も白コードの中、取っ手付きのCDプレーヤーを手からぶら下げてミュージックライフである。見方によっては「流行なんかに乗せられないぜ」なんてちょっと幼い印象を与えるものでもあるけれど、その物腰が「これは体の一部なんです」と言わんばかりで、大変に好感を持てた。ポーズやスタイルに囚われない――ちょっとアレなズンドコいわせて近所迷惑な代物に成り下がった車両みたいな迷惑装置は除いて――音楽を愛する姿勢は、忘れちゃならないと思う。そういう意味では、最もノーミュージック・ノーライフを体現していたのは、大昔のラジカセ担ぎ兄ちゃんだったのかなあ、とも思ってしまう。利便性を見捨ててまで音楽にのめり込む姿勢は大いに評価すべきじゃないだろうか。それが前述の車両と同じ様な、他者の領域を侵害するものでない限りは。


とはいえ、今は何せ小型化・合理化・合体化の時代である。携帯電話でテレビやラジオが視聴出来てしまうのだ。iPodですら動画が観れる。iPodみたいな携帯まで現れた。フラッシュメモリの容量は増えるばかりで、それほどイルでホリックな感じに音楽分を摂取しなければならない人でもない限り、日常使用においては十分といえる容量かつ音質になってきている。音楽がもっと僕らの身近になって、もっと音楽を知る人が増え、そして音楽の道がまた新たに拓けたなら。これ以上リスナーにとって嬉しい事はない。


つまり、何が言いたいかといえば、Webを漁れば死ぬほど出てくる、プロにも負けないアマチュアがもっと注目されても良いと思うのだ。表現の場は確実に広がり、裾野は下がり続けている。増えすぎるのもそれはそれでまた問題とする見方もあるようだけど、それはそれだけ生存競争が厳しくなるだけであって、然したる問題ではない。万人の創作活動化、人が増えすぎ、それと同じだけの娯楽が必要になったというだけではないだろうか。


でもね。芸人がプロレスやる、ってーのは、ウン十年前に女性をボコボコにするショーをやり続けた先人の模倣でしかないような気がするんです。やってる芸人さんのコメントを抜き出した「お笑いの新たな境地」みたいな見出しがどこかのスポーツ誌にあったけども、世界は広いのだなあ。