TBもcommentも受け付けないblogなんて
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50276503.html

トラックバックやコメントを受け付けない設定をしたBlogツールを使ったサイトは言いたいことだけを言う暴言サイト……即ち議論や言論の体裁を取るに値しないという記事を見つけて愕然とした。
一体その様な考えを持つ彼、彼らは、ここをどのような場所だと考えているのだろう? Web2.0だとか何とかとはやし立てる割には、今のここを何ら理解していないのではないかと思ってしまう。
大昔はトラックバックやコメントなんて物は存在せず、人はオーサリングツールや手入力でHTMLを構築し、サイトを運営して、人によっては今のコメントやトラックバックに相当する役割のBBSやらを設置してやり取りをしていた。
その時分はあまりリファラだとかリンク元なんてのは脚光を浴びず、大抵は口コミ伝聞で「どこそこがだれだれに言及してたよ」という報告を受けて反論を書き上げる、なんてことも散見された。トラックバックやコメントでの「挨拶」が先に立つ今では到底あり得ないことだ。
そこからもう少し時間をおくと、アクセス解析でのリファラを辿ったやり取りが活発になる。「リファラを辿ったらどこそこにこう書かれていた」なんてやり取りだ。これでも、今からすれば前時代的な、非効率なやり方なのであろう。
本題に入る。果たして、他者の言葉を受け入れる場を用意していない、つまりトラックバックやコメントを受け付けなければ、それはただの「Web日記」なのだろうか? 当然YESだ。同時にそれはWeb日記の外来語である「Blog」でもある。小飼氏はどうもBlogは「Blogツールを使った双方向性のあるコミュニケートツール」と思い込んでらっしゃるようだが、それは現在のワイヤード上のコミュニティがそういう形で「あるツール」、つまりMTやらbloxomやらを利用しているというだけであって、例え「TBもcommentも受け付けない暴言Web日記」であってもそれは普通の事で、また、ただの言い換えである「Blog」かどうか、と言われればそうである、としか言いようがない。何故ならずっと以前からそういうタイプの書き手は大勢いたし、今でもそういう人はどこかに確実に居るだろうからだ。


大昔に、「対象を限定せずに自論をのたまうのは卑怯だ」と言った人がいた。ソースはなにぶん、昨日のことも満足に覚えられない半壊した脳細胞故に忘れてしまったが、当時散見された、本人は対象を知っているし、URIを添えたり引用も可能であるのに、あえてそれを行わずに対象を濁した上で一般化して批判する、という形態を「卑怯なり」と切り捨てたものだ。当然、その記事は言及元をしっかり特定していた。
どうも先の話は、この話に通ずる部分があるように思う。先の話では、当人の意思はともかくとして、他者の発言を意図的に自分の領域から廃する思考が読み取れる。この話では、あえて対象を特定しないことで議題を一般化し、本来の言及対象との明確な対立を回避する事ができる。


議論は多分に労力のかかるものだし、長年あちらこちらに議論をふっかけている人を見ると全くタフだと感心せざるを得ないが、誰だってそこまでタフな訳ではなく、不要な議論は回避し、私見ではあるが結論だけを提示することで「問題に直面した自分」という問題を片付ける、というようなことをしてしまうのも、理解出来ない訳ではない。問題はそれを公開された場でやってしまう事であるが、生憎ながらそんな与太話を真に受けて喧伝するような素晴らしいお方に僕はついぞお目にかかったことはない。見たことがあるのは、内的に影響されるのを避けた人に対して、外的に影響する、つまり言及元を明かした上での批判を書く、というこの世界での当たり前のやり取りである。それに反応するもしないもその人次第、なおかつどちらが正しく、どちらが間違っているのかはビジターが判断する。その為のWebであるし、その為の公開された場ではないのか。
小飼氏はその後のエントリーで、先の話の意図は、「人は須く名声・権威に同意しがちな生きものである」という危惧であったと明かしているが、根本は同じである。むしろ、トラックバックやコメントのやり取りは、その危惧そのものではないのかと僕は考える。
小飼氏のblogを巡るやり取り、コメント、トラックバック先で何度か言われていたが、「内的に言及可能にしておくと削除もそのblogの管理者は可能である」という点だ。
人気のblogになれば、そのトラックバック数やコメント数は凄まじいものとなる。一つ二つ、不都合なものを削除してしまったとして、誰にも気付かれない可能性すらある。そしてその権威が保たれ続ける限り、それに疑いを持って同界隈を漁ったり、検索をしてみる人は少なくなるだろう。
メディアリテラシーとは良くぞ言ったものだ。ある記事を読み、それに疑問を呈し、自分の言葉で語ったり、その裏を調べてみたりする人が今どれほどいるだろうか?
Blogツールの台頭で利便性は昔と比べて格段に向上した。しかし人はどうだろう? あの時よりも、人は情報を上手く扱えるようになったのだろうか?


小飼氏の先の記事を読む限りでは、進歩どころか退化してしまったのではないかと思われて仕方がない。もし僕の記事に違和感を感ずる方がいるのならば、先の記事とそれに続くエントリーを、元となった加野瀬氏の言及、はてなの記事*1とを比較してみるといいだろう。小飼氏の批判の仕方は、「対象を特定しない」それでしかなく、そしてそれは自身のいう「反証を認めぬ言論は暴言」にそっくりそのまま跳ね返るではないか。


蛇足になるが、僕はこのやり取りを至極「どうでもいい」と思っている。何故って、例えトラックバックやコメントを受け付けなかったり、対象を決定しない言葉を書き連ねたりしても、そこが公開されている場である以上、僕のように必ず異論反論を「第三者に改竄されることのない自分の場で」言う人間は居るし、そしてそれを紹介し本人や周囲の目に届くようにする役割を果たす人がいるからだ。
ここでは全体が一つとしての役割を果たす。何を選び何を知るかは、その人の貪欲さ、猜疑心にかかっている。そうだと知れない人はある意味で幸福かもしれないが、その幸福に救いがあるかどうか、僕には知るよしもない。一つ言えることは、久しぶりに長いこと書くと大変疲れるということだ。