サイトの日記ほぼ全文丸写しされた人その一。
http://d.hatena.ne.jp/furamubon/20041213#1102902955
その二。
http://d.hatena.ne.jp/kowagari/20041213#p1
それについての考察。
http://d.hatena.ne.jp/hkt_o/20041107
考察その二。
http://d.hatena.ne.jp/hkt_o/20041212
その考察の考察。
http://d.hatena.ne.jp/tragedy/20041213#p1

非常に惜しい。経緯は丸写しされた方の方を見て頂くとして、徳保氏の考察は、キリコ氏の言うように、フリーソフトと個人の書いた文章を同列に扱う結果になってしまい、徳保氏の前々から主張されていた「著作権の能動的破棄」と言う新しい概念を、自ら捻じ曲げてしまっている。
丸写し、つまりパクリと呼ばれる行為の問題点は、コンテンツ作成者の詐称と言う一点に尽きる。いくらWeb広しと言えども、有機的な人と人との繋がりは凄まじい。ましてや丸写しされ得るほどの価値のある文章を書かれる方、と言うことは、それなりにその界隈だとか筋だとかで名の通っている方、と言うことになる。耳に入らないはずがない。そして結果的には、「騙された人」と「騙した人」、そして「剽窃された人」の誰もが、何の利益を得る事もなく、ただ虚しさだけが残る。
また、文章の剽窃の問題もある。あるコンテンツにどのような価値を見出すか、と言う観点において、大きく分けて「発見」、「構築」、「発展」の三要素がある様に思う。
「発見」は文字の通り、その作成者(達)独自に、新たな価値を発見及び創造すること。「構築」は、一見てんでばらばらな事象をまとめ、体系的に整理することによって価値を見出すこと。「発展」は、それらもしくはどちらかを、全く別の事柄と複合したり、それ自体をより掘り下げて新たな価値を創造すること。「構築」と「発展」は「発見」が根底にあるのは言うまでもない。
で、何故に剽窃が悪く、引用が認められるのか。それは考えなくとも導き出せる自明の理とも言うべきもので、剽窃は先に書いた通り「丸写し」であり、つまりそこにはなんら「発展」の要素も「構築」の要素も見受けられない。「発見」したのは元々のコンテンツ作成者である。無意味極まりない。
一方、引用が認められるのは、引用を行うことで「構築」ないしは「発展」の礎となり得るからであり、それ故に著作権法における引用の要件には「著作物の主従関係が明確でなければならない」と言うものがある。つまり、メインは引用されたものではなく、そのコンテンツでなければならない、と言う事だ。
これらの事はあえて文章にしなくとも、ある程度創作活動に類した事をした事のある人であれば、暗黙的、無意識的に承知していることで、むしろ言葉にすることすら憚られるほどに「当然」の事であるように思う。だからこそ主観的な「叩き」や「批難」に陥りやすいのではないか、と僕は見ているが、それはまあ本題にそれるのでどうでも良い。
そこで徳保氏の「著作者人格権の破棄」である。これは確かに氏の例に挙げた「フリーソフト」や「パブリックドメイン」に通ずるものがある。「フリーソフト」については何となく似通った部分がある、と言うだけで、やはり同じ次元に引き降ろすと全く異質のものであるから、ここでは「パブリックドメイン」を取り上げる事にする。
まず、氏の唱える「著作者人格権の破棄」では、引用や著作権に関する知識の暗い人々でも気軽に引用、複製、転載出来ると言う側面と、「あくまで個人が趣味に書いたものだから、どう使われてどうなってもしらねーよ」と言う責任放棄にも近い、危うい側面も、併せ持つ。破棄、と言う以上、仕方のない事であると言えばそれまでだが、やはり抵抗を感じる人は多いであろうと思う。
しかし、引用、転載、複製の垣根が取り払われれば、有用なコンテンツをより広く、より有用に用いる事が出来るようになる。そう言った有益な側面を、「著作権を守りたい人」との折り合いも含めて有効に活用しようとしている組織、Creative Commons Japanと言うのも登場してきている。これは厳密には氏の唱える「著作者人格権の破棄」とは異なるかもしれないが、そういう「理解」や「認知」に向けての歩み出しは、始まっている、と言うことだ。
他人の作ったコンテンツを認識し、それを元に自分の頭で考え、そして自分の責任で動く、そういう人は今現在でも少なからず居るし、そう言った地盤を元に、表現に関わる人が表現するような時代が、もうすぐそこまで来ているように思う。
極論と言うか、暴論を言ってしまえば、Webにアップロードしている時点で、見知らぬ誰かに「パクられる」危険性は常に孕んでいるものだ。「してはいけない」と言う自戒はある程度誰しも持っているものの、「されても仕方ない」と言う覚悟は殆どの人がしていないのではないだろうか。先に書いたように丸々転載して自分が作ったと吹聴する事は全くの無為である。そこにはただ虚しさがあるだけだ。パクる方がパクる前に気付いて貰いたいと言う心持はあるものの、しかしパクられた側がわざわざその無為を槍玉に挙げて糾弾する、と言うのも、どうも僕には滑稽に思われてならない。放っておけばいいではないか。そのうち誰もが気付くはずだ。
丸々写したところで、そこに新たな価値がなければただの塵でしかない。塵で満足出来るならそれでいいだろうし、満足できなくなった時に、人は歩きだす。
これを読んでいる貴方は、この広大なWebの何処かで、何かを作り出しているのだろうか。そうである、と言う人は、何故作り出しているのだろうか。作り手たる貴方は、そこに一体、何を求めるのだろうか。
その答えの一端が、この問題の向こうにあるように、思われてならない。
(一部加筆修正。語感とか接続詞辺りの校正なので、大筋と言うか大意は変わってません。)